仏や菩薩が具体的な姿を示現し、行為や言葉などを通じて衆生を教化・救済すること。
垂迹の本源としての仏や菩薩の悟りそのものを「本地」という。
そもそもこのような「迹」の概念は、『荘子(そうじ)』(天運)における「迹」(教化の迹)と、「所以迹」(教化を成り立たしめている道(どう))の語に由来し、西晋の郭象(かくしょう)(252?-312)は『荘子注』において、これを聖王(内聖外王)の説明の中で展開し、「迹」を王者としての教化・統治、「所以迹」を聖人としての本質(絶対自由の境地)の意味で用いた。