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くさい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

救済

paritrāṇauttaraṇa etc. (S)

 サンスクリット原語の意味は、「救うこと」「護ること」であり、漢訳では「救済」のほかに、「救護」「救抜」「抜済」などが当てられている。

注 救済(きゅうさい)という漢語は、『三国志』などに用例が見える

 『倶舎論』では、救済とは、仏・法・僧の三宝に帰依することによってすべての苦から救われることを意味している。『法華経』(譬喩品)では、三界はすべて仏の所有であり、衆生はことごとく仏の子であり、したがって苦しんでいる人々のために、ただ仏のみが「救護」となる、と言い、『華厳経』(十廻向品)では、「一切衆生を救護して衆生の相を離れしむ」と言う。このように、『倶舎論』では、仏自身が衆生を救うというまでには至っていないが、法華経や華厳経のような大乗経典では、仏自身が衆生の救い主になっている。

親鸞の場合

 親鸞は『教行信証』(総序)で、

権化の仁斉(ひと)しく苦悩の群萌を救済す

と言い、また『皇太子聖徳奉讃』のなかで、聖徳太子について

有情救済の慈悲ひろし

と言い、太子が亡くなった後も

有情を救済せむひとは、太子の御身と礼すべし

とも言う。親鸞は、阿弥陀仏を衆生の救済者と見ており、太子については、その生前も没後も衆生救済の活動を続けていることを認めている。

キリスト教では、神やキリストは「救い主」(sōtēr)であり、信仰の点で、親鸞とキリスト教とが比べられるが、親鸞は、阿弥陀仏をつねに人格的とだけ見ているのではない。帰する所は法身であり、形のないものとなっている。