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しんにょしょえん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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真如諸縁

 『起信論』には、真如に不変真如と随縁真如とを説く。「真如」を明瞭に説くことは、中観派にはまだなく、瑜伽行派になって明確に説き出された思想である。
 しかし唯識派の真如は「真如凝然」であって、現象の諸行無常の世界に無関係な真如であった。真如は請法の内面的な実性であるが、しかし諸法の外面の差別相の、その差別の原理とはなりえないと考えられていた。

 「真如」とは何かというに、真如は現象世界の本質である。一切のものが真如である。真如でないものはない。したがって真如を認識の対象として理解することは不可能である。真如を認識の対象とすると、自己は真如から漏れてしまい、真如でないものになってしまうからである。それでは「一切が真如である」ということはできない。そこに、真如が理論理性では捉えられないもの、禅定における般若の直観によってのみ把捉できるといわれる理由がある。換言すれば、真如を知るとは、自己が真如であることを自覚することである。それは、真如がみずから真如であることに目覚めることである。そこでは主客の区別は消失しており、一切が真如になった世界である。それ以外に真如を知る方法はない。換言すれば、悟りの智慧が真如である。唯識ではこれを、根本無分別智という。無分別とは直観をいう、洞察のことである。
 次に、この無分別智の洞察に立ちながら、相対的な差別の世界を認識するのが、後得智である。これは「仮智」である。現象の世界は刹那無常であるから、実体としては掴まれない。現象を実体として掴むと、真如は失われる。この根本無分別智と後得智という図式は、唯識でも『起信論』でも同じであるが(ただし『起信論』には、この語がそのまま使われていることはない)、その理解の仕方が異なるのである。
 『起信論』では、不変真如は根本無分別智で知られ、随縁真如は後得智で知られると理解してよい。ただ『起信論』では、両者が共に真如であって、真如は一面では自性を守って「不変真如」であるが、他面では自性を守らないで、無明に色づけられて随縁真如となり、現象界の根拠となると考える。すなわち、真如は最高の普遍者であるから一性である。一性である点が不変真如である。そうでなければ、現象の雑多性の根拠とはなりえない。しかしここにとどまるならば、不変真如だけで、唯識の真如凝然と同じになる。『起信論』はここにとどまらないで、真如は現象界成立の根拠であるから、その無限の差別相を可能にする「性功徳」を具えていると見る。
 すなわち、真如は最高の普遍者であるから二性であると見れば、唯識説の真如である。しかし真如は一であると共に、無限に豊富な力を持つ、そして現象界成立の原因になると見れば、『起信論』の真如の見方になる。これは真如をそのまま如来蔵と見て、迷いに在る佛身と見るからである。

 先に、真如を知るとは真如になることであり、真如と真如を知る智慧とは別のものではないといったが、ここに悟りの智慧が、すなわち真如であるという結論になる。『起信論』が、真如を如来蔵と見る理由はここにある。
 しかも真如を智慧と見ると、智慧は豊富な力を具えているから、真如に無限の力を認めることになる。これは『起信論』の真如の見方である。すなわち真如を理のみと見れば、唯識の真如観となるが、真如は理であると共に智であると見れば、『起信論』の真如になる。
 この見方では、真如は佛身であるから、無限の性功徳を具えるのである。それが凡夫においては如来蔵となり、無明煩悩と交錯して、心の世界としての現象界となっていると見るのである。すなわち真如を一性と見ながら、同時に、無限の性功徳を具えていると見るのが、終教の真如観である。

 この無限の性功徳を具えている点で、随縁真如となる。真如が自性を守らず、無明の薫習に誘われて、みずから妄境界を現出すると見るのが『起信論』の見方である。「真如は自性を守らない」とする『起信論』の見方は、法相宗の絶対に認めないところである。真如を理のみと見れば、理は活動しないから、真如が現象界に活きかけることはありえないからである。
 これは、真如を理のみと見るか、理智不二と見るかの違いである。そして『起信論』では、悟りの清浄な智も、時と場合には、無明煩悩に染められ、汚れると見るのである。理は迷に在っても汚れないが、智は迷に落ちこめば汚れるのである。唯識は真如を理と見るが、『起信論』は理智不二の如来蔵と見るのである。真如と現象界との関係は水と波の関係で説明されるが、水の外に波はなく、波の外に水はない。水波は不二である。現象(諸法)と真如は不二である。この点の理解は、唯識も『起信論』も同じであるが、唯識は、無限に変化する波の差別相は水から生ずるのではなく、波自身にあると見る。これに対して『起信論』は、波を作る力が水に具っていると見るのである。しかし水に波を作る力が具っていても、風が水を打だなければ波は生じない。この風にあたるものは「無明」であるという。無明の問題は、別の問題になるが、ともかく真如に不変と随縁を認めるのが『起信論』の立場であり、随縁を認めないのが唯識の立場である。