いっすいしけん
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一水四見
本来、法相唯識で、教学の立場を述べるために説いた。「一境四心」「一処四見」ともいう。
認識の対象となるものが、共中の共として、たとえば山河大地などのようなものであっても、それを認識する人々の境界の差異が、これに四相分別の差異を生ぜしめることをいう。
人間の共通の業によって、そこに現われている共変の法も、それを認識する能縁者の果報の如何によって、すなわちそれぞれの生きものにとって、また人間相互においてさえも、差異をもつ不共受用の法となることをいう。たとえば、水をみても人間は水とみるが、餓鬼にとっては火であり、魚のような畜生にとっては家屋であり、天人にとっては玻璃であるようである。
無性〈むしょう〉の『摂大乗論釈』に
- 餓鬼においては自らの業の差異、増上力の故に、みるところの江河が悉く膿血〈うみち〉を充満する処となり、魚などの傍生〈ぼうしょう〉は、すなわち舎宅や散歩の道路とみえ、天人にとっては、種々の宝の荘厳する清らかな土地となり、人間はこの清涼の水に波浪のたっているのをみ、もし虚空無辺処定に入ったものがあれば、その人々にはそこにただ虚空をみるだけである
といっている。
このような意味で、一般にこの譬をもって、人間はその境界において、それに相応して自分なりに物をみるので、本当にこれを公平な立場でみることは不可能であることを語るのである。自らの立場にのみ立ち、他を斥けるのに急である人々は、この一水四見の事実をしらないものであるといわねばならない。その意味で、これは唯識という教学の立場をはなれても、大きな教訓となるものであるといわねばならない。