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ゆうだい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

用大

 とは功能作用のこと。如来の活動のことである。
 『起信論義記』には、随染の業幻・自然の大用であり報化の二身であるという。すなわち体大である真身(法身)が衆生に働きかける時の報身化身とが用大であるという。佛陀の活動であるから、そこから「一切の世間と出世間との善の因果を生ずる」と説くのである。
 体大の場合は「一切法」といって、善・不善を共に含むが、用大の場合は善のみを採り、不善を含まない。真如は一切法の真如である。真如以外のものはないから、無明といえども真如を依処として起こる。
 体大はであるから諸法に遍する。真如の外に無明があるのではない。もし真如の外に無明があり、迷いの根拠となるとすれば、無明は実在・実体となることになり、実在を滅することは不可能になる。無明も真如を離れたものでない点で無明は滅しがたいものであり、強力であり、心を強く束縛して、迷いに流転させるものである。しかしなおかつそれは虚妄であり、実体のないものであるとしなければならない。なぜならば、無明を真如の直接の属性と見ることはできないからである。
 たとえていえば、無明は夢の中の出来事の如きものである。夢の中の出来事は実在ではないが、夢を見ている限り、それは事実と変らないのであり、心を強く束縛している。しかしそれが夢であることに気がつけば、夢の内容は即座に消失し、無力となる。
 これと同様に無明は真如に依拠して存在するが、しかし虚妄であるとなす。

 『起信論浄影疏』は用大の作用を、染と浄の二つに分ける。とは真如と無明の関係であり、これに依拠の用と縁起の用があるという。無明も真心に依拠して存在し得る。これが真心の依拠の用である。
 縁起の用とは真心において無明が起こる関係をいう。夢の内容は虚無であっても、夢そのものは心の作用であり、この作用は縁起の理によって起こっている。この点が真心と無明の関係であり、真心の縁起の用である。『浄影疏』が用大の用を染浄の二に分ける第二は浄の用であるが、これをさらに二に分ける。
 それは堕縁顕用と随縁作用である。前者は、真心は本浄であるが、しかしその作用は修行対治によってはじめて顕われる点をいう。「顕」の語で本浄(無作因果)を示す。随縁作用とは、修行対治に功果のある点をいう。凡夫と佛とで因果の関係になる。これは報身についていう。すなわち法身についていえば、「浄」たることは無因無果であるが、報身についていえば「有作の因果」であり、この点を随縁作用という。ともかく無明と翼如の関係は、『起信論』において説明の最も困難な点である。