じょうどろん
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浄土論
「Sukhāvatī-vyūha-upadeśa」1巻
具名:無量寿経優婆提舎願生偈〈むりょうじゅきょう うばだいしゃ がんしょうげ〉。略して『無量寿経論』『往生論』ともいう。〔大正蔵 vol.26, p.230〕
バスバンドゥ(Vasubandu、世親または天親)の著作とされる。
サンスクリット語原典は現存せず、菩提流支の漢訳のみ現存。偈頌(韻文)とそれを解説した長行(じようごう、散文)の部分からなり、特に後者においては、浄土往生の方法として五念門を説いている。
『無量寿経』に依って願生偈を作り、これを解釈したものである。
初めに五言四句24行の願生偈を掲げ、次に偈頌の意味を解釈している。
最初に安楽世界に生れようと願う者は、礼拝・讃歎・作願・観察・回向の五念門を修行することを説く。中でも、観察門に広く彼の国土ならびに佛及び菩薩の三種29句の荘厳功徳成就を説いて、それぞれこれを観察すべきことを明かしている。
続いてこの3種の荘厳功徳は、概略すれば一法句になる。
一法句とは、清浄句であり、清浄句とは「真実智慧無為法身なり」と言い、このように奢摩他毘婆舎那を修行すれば柔軟心を成就し、またよく巧方便回向を起こし、3種の菩提門相違の法を遠離して3種の随順菩提門の法を満足して得るとする。
次にこの五念門の行が成就すれば、順次に近門、大会衆門、宅門、屋門、園林遊戯地門の5門の功徳を得ることができることを明かして、中でも、近門等の前4門は「入の功徳」であり、礼拝等の4種の行によりて蓮華蔵世界に入って法楽を受けると言う。
園林遊戯地門は「出の功徳」であり、生死煩悩の園林に回入して、遊戯神通して教化地に至ることを言う。是の如く自利利他すれば速やかに菩提を成就することを得るとする。
本論は印度撰述としては唯一の浄土論部であり、古来浄土家においてこれを尊重し、「三経一論」と呼んで、三部経とともに所依の聖教とする。
この解釈は高妙であり、おおよそ無著の『摂大乗論』に説く十八円浄の説に合致する。
復次諸佛如來浄土清淨其相云何應知。如言百千經菩薩藏縁起中説。佛世尊在周遍光明七寶莊嚴処。能放大光明普照無量世界無量妙飾界処。各各成立大城。邊際不可度量。出過三界行処。出出世善法。功能所生最清淨自在唯識爲相。如來所鎭菩薩安樂住処。無量天龍夜叉阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽人非人等所行。大法味喜樂所持。一切衆生一切利益事爲用。一切煩惱災横所離。非一切魔所行処。勝一切莊嚴。如來莊嚴所依処。大念慧行出離大奢摩他毘鉢舍那乘。大空無相無願解脱門入処。無量功徳聚所莊嚴。大蓮花王爲依止。大寶重閣如來於此中住。如此浄土清淨顯色相円浄形貌量処。因果主助眷屬持業利益無怖畏住処路乘門依止円浄。由前文句如此等円浄皆得顯現。復次受用如此浄土清淨。一向淨一向樂。一向無失一向自在〔T31 - 131c〕
つぎに念法身の中の第2の「浄土清浄」を述べ、七相の中に如来の大富楽は浄土であると言い、八不可得と二可得とを言いながら、いまだ所在の処を明さなかったから、その場所を顕わす為に浄土の相をあきらかにしようとする。
「言ふが如し、百千経菩薩蔵縁起の中に説く」とする「言ふが如し」とは世親釋に総じて諸経を挙げるから、このようにいうとあるが、これは奇妙な註解である。
また「菩薩蔵の中、別に浄土経あり経に百千偈あり故に百千経と名づく」と言うのは、どの経を指すのでもないが、『華嚴経』に百千偈があるから百千経と名づけている。この経の縁起中で広く浄土の相を説いていることを見れば、『華嚴経』を指していると考えられる。
しかし普寂は、華厳経にはこのような説はないとして、『佛地経』にあるから、これが百千経中の一分だろうとしている。『佛地経』が無着に引用されたかどうか、大いに疑問である。百千は十萬で、「śatasāhasrikā」を原語とするから、『般若経』のように見える。
浄土は、十八円満の華蔵世界であるが、ここでは18の円浄といわれ、浄土の相を示している。
- 色相円浄
周遍の光明ある七宝莊嚴の処にして能く大光明を放って普く無量の世界を照しとは金と銀と琉璃(vaiḍūrya)と摩沙羅(musāra)即ち車渠又は琥珀と阿輸摩竭婆(aśmagarbha)即ち碼碯と因陀羅尼羅(indranīla)即ち帝釋青と廬嬉胝柯目多(lohitamuktikā) 即ち赤珠との七寶一一の光明が一切処に周遍し、七寶を以て荘厳せる処で、此七寶の光明が無量の世界を照らすから周遍である。 - 形貌円浄
無量の妙餙界処が各々成立しとは、この荘厳が希有無等なれば妙餙といひ衆多の妙餙があるから種種といひ所遊行地を界とし、所居地を処とし、一々の界一々の処が荘厳具足せるが故に成立するという。 - 量円浄
大域にして辺際は度量すべからずとは徑度を度、周囲を量と言い、一の佛浄土の辺際が凡夫の由旬等の数で度量すべからざるをいふ。 - 処円浄
三界の行処を出過しとは三界の集諦を行とし三界の苦諦を処となすが浄土し三界の苦集の所摂でないからこのように言う。 - 因円浄
苦集諦の摂でなければ何れの因を以て生じ何れの法を体となすかを述べて、出出世の善法の苦悩の所生にしてといふが、二乗の善を出世、八地以上佛地までを出出世といひ、出世法は世法の対治、出出世法は出世法の對治であり、功能は四縁を以て相となし、出出世の善法の功能から此浄土が生起するが故に集諦が因でない。出出世の善法は無分別智と後得智との所生の善根を指す。 - 果円浄
最清淨自在の唯識を相となしとは菩薩及び如来の唯識智は無相無功用であるから清淨といひ一切障を離れて無退失であるから自在といひ、此唯識智を浄土の体となすから苦諦が体たるのではない。唯識のみであるから識を離れて別に七寶等があるのではなく佛の淨心が是の如くに變現して衆寶に似るのみであり、浄土は佛の無漏心が体相である。 - 主円浄
如来の鎮する所とは此浄土に如来が恒に居て上首たるが故に鎮すといふ。 - 助円浄
菩薩の安樂住処にしてとは自ら正教を受行し他に教へて受行せしむるを安樂と名づくるから菩薩は此浄土に於て佛を助け道を助けるのであり此二事を具するから安樂住処といふ。 - 眷屬円浄
無量の天龍・夜叉・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人非人等の行く所とは浄土の中には實にはかかる衆生なきも、不空ならしめむと欲するが故に佛は此の如き雜類を化作するのである。 - 持円浄
かかる衆生と菩薩とあらば其所食は何ぞやを明にして、大法味の喜樂に持せられといふ。大乗十二部経が大法、真如解脱が味、此法味を縁じて菩薩は喜樂を生じ五分法身を長養するのである。 - 業円浄
此法味を食して爲す業を述べて、一切衆生の一切の利益事を用となしといふ。凡夫二乗が一切衆生で、其所能に隨うて正教を説き説の如くに修行せしめるが、四悪道を離れ生死を離れ二乗の自愛を離るるを一切の利益といふ。 - 利益円浄
菩薩が衆生に此の如き業を行ぜば能行と行処とが何れの利益を得るかを示して、一切の煩悩災横の離るる所といふ。三界の集諦が一切の煩悩、三界の苦諦が一切の災横、此二が悉く能行行処を離るるのである。 - 無怖畏円浄
一切の魔の所行処に非ずとは浄土の中には陰魔煩悩魔死魔天魔はないから一切の怖畏を離れて居るのである。 - 住処円浄
一切の莊嚴に勝れたる如来の莊嚴の所依処にしてとは浄土中にも六根の所受用法の具はるをいひ而も一切所受用の具の最勝無等なるのみならずこれ如来の福徳智悪行の圓満因の所感であって如来の勝報は此処に依止するから最勝となすのである。 - 路円浄
大念慧行の出離にしてとは浄土の中にて何れの法が出入路なるやを示したもので大乗の正法を大法、大法の中の聞慧を念、思慧を慧、修慧を行といひ此三が浄土に於ける往還の道である點で出離と稱する。 - 乗円浄
大奢摩他毘鉢舎那を乗としとは右の路あらば何法に乗ずとなすかを明すもので大乗中の五百定を奢摩他如理如量智を毘鉢舎那とし此二を乗となすのである。 - 門円浄
大空無相無願解脱門を入処としとは乗あらば何れの門より入るかを示すもので大乗に於ける三解脱門は一体であって無性によるから空、空の故に無相、無相の故に無願であり、若し此門に至れば浄土に入ることを得るのである。 - 依止円浄
無量の功徳聚に莊嚴せらるる大蓮華王を依止となすとは世間世界の地輪が水輪に依り水輪は風輪に依る如くに浄土は何法に依るかを示したもので、大蓮華王は之を大乗所顕の法界真如に譬ふるのであるが、一、蓮華は泥中に在るも泥に汚されざること法界真如が世間にあるも世開法に汚されないのに譬へ、二、蓮花の性の自ら開発するを法界真如の性の自ら開発するに譬へ衆生が證せば皆覺悟を得とし、三、蓮花は群蜂に採らるるを法界真如の衆聖の爲に用ひらるるに譬へ、四、蓮花には香と淨と柔軟と可愛との四徳あること法界真如の常樂我淨の四徳あるに譬へ、五、衆花中最大なれば王と名づけて法界真如の一切法中最勝なるに譬へ、六、此花の無量の色相功徳聚に莊嚴せられて一切法の依止となるを法界真如が無量の出世の功徳聚に莊嚴せられて、浄土の依止となるに譬へるのである。
如来の願力所感の宝蓮花は諸花中の最大最勝の故に王と名づけ無量の色相等の功徳聚に莊嚴せられて能く浄土の依止を爲すのである。然らば此の如き浄土の中何法が如来の住処なるか。大寶重閣に在り如来は此中に於て住すといふのがこれ如来の住処を示したものである。此の如き浄土は清淨であるから、世間受用の器世界には無量の過失あるも、浄土を受用せば十八の円浄の功徳がある。一一は各項に記した如くである。
故に浄土の清淨を受用すれば一向淨一向樂一向無失一向自在である。恒に雑穢がないから一向淨、唯妙樂を受くるのみで無苦無捨であるから一向樂、善のみで悪無記がないから一向無失、一切事悉く外縁を待たず自心に由りて成ずるから一向自在といはるるが、又大淨によりて一向淨、大樂によりて一向樂、大常に依りて一向無失、大我によりて一向自在といふのである。故に菩薩にして如来の富樂を憶念し法身を念ぜば此の如くに知るべきである。
十八円浄は『解深密経』にも説かれて居るから、無着としては『解深密経』を引證すべきである。前にも解深密経を引接して居るからここにもそれを引接するが當然である。然るにそれをしないのは明に無着当時の『解深密経』には十八円浄を述べた部がなかったからであろう。真諦譯の『解節経』は浄土の説法とはなさずに穢土の説法となし、しかも説処が異って居る。故に『解深密経』そのものの上に変遷があったのであり、古い形の経には十八円浄の説なく、後に而も無着以後に十八円浄が附加せらるるに至ったのであると知られる。
このような浄土は元来何処にあるか。或は淨居天上にありとし或は西方等に在りとし、或は此世界と同処とし、説が一定しないが、自受用浄土ならば法界に周遍し処として有らざるはないから三界処を離るとも三界処に即すともいふを得ない。然し以上述べたものは他受用浄土で而も三界行処を出過すともあるが元来処所は定まらないから異説もあることになるのである。
地上の所見は報土、地前の所見は化土で、宜しきに隨うて現ずるから方を定めて一処と指すを得ないのである。衆生に勝欣心を起さしめむが爲に別に処所を指すが、衆生心量に應じて局通が存するから一定しないのである。又無着時代の説では一般に受用土は淨、變化土は穢とせられ、變化土が淨穢に通ずとなす考はなかったといはるる。後世になってから變易土について淨穢を細判して或は彌勒の出世時を淨とし或は暫變淨を淨となすに至ったのである。〔以上『摂大乗論研究』宇井伯寿, pp.761-766〕
伝訳に関し『歴代三宝記』第9及び『大唐内典録』第4には元魏節閔帝普泰元年これを出し、僧辨筆受となし、『開元釈教録』第6には同孝明帝永安2年洛陽永寧寺に於いて訳したとしている。
後、曇鸞が註解し、爾来廣く行わるるに至り、本邦にも夙に伝来し、元興寺智光は曇鸞の註解に就き更に疏を製し、又現に正倉院聖護蔵中に古写本を蔵している。
現行流布本は曇鸞の註解所釈の文に依れるものであって、これを現蔵所収の本に比すると、蔵経本には200余字を闕減し、又10余字を増加し、その他字句の顛倒せるもの30余所あり。是れは後代転写の間に錯謬を生じたものであろう。
註疏多く、註2巻(曇鸞)、疏5巻(智光)、五念門私行儀(明賢)、五念門行式(實範)、五念門略作法(明遍)、首書2巻(失名)、首書8巻(阿春)、遊匁記1巻(法霖)、渧4巻(履普)、述要1巻(僧鎔)、講録2巻(柔遠)、講義4巻(法海)、聴記3巻(百叡)、随釈3巻(月珠)、大意1巻(惠然)、聞書1巻(宝雲)、記五巻(大含)他