いっしん
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
一心
元来必ずしも仏教語ではなく、皆で心を一つにする意味、あるいは専心する意味であって、中国古典にも見られる。
仏教でも特に専心する意では多く用いる。
- 一心敬礼(きようらい) 心をこめて三宝を敬礼すること
- 一心帰命 心をこめて仏に帰依すること
- 一心不乱 念仏などにおいて心を散乱させないこと
- 一心専念
- 一心称念
- 一心正念 この三つは念仏に関して言われる
ただし、これらにおいては後述のような哲学的なニュアンスも加わってきている。そこで、この哲学的な意味の一心であるが、これも『荘子』(天道)に天地と一体になった境地が「一心定まる」と言われている用法などが先駆となる。
仏教
万有の実体真如を指す。
- 一心、十法界を具ふ。〔摩訶止観5上、T46.0054a〕
また一筋に信念の対象に心を集注して、他に心が奪われないことを言う。
- 一心とは、此の法を修す時、一心専志、更に余に縁らず。〔〃4下、T46.0048b〕
- 一心とは、心に異念無きが故に。〔華厳経探玄記、T35.0151a〕
仏典においては、特に『華厳経』(十地品)の
- 三界虚妄(こもう),唯是一心作(さ)
がもっとも重要である。この原義は、世界のあり方は我々の心のあり方に依存するという意で、ここでの一心は特別の心を意味するわけではない。
- 一心一切法,一切法一心
などと言われるのもこの思想の発展である。ところが,後にはその一心を染心と見るか浄心と見るかで説が分れるようになり、特に中国では浄心と見る方向が主流となる。これには『大乗起信論』の影響が大きく、中国華厳や禅では、「一心」はすべての根源の原初的・絶対的な心とされるに至る。
一心に事理の2つがある。余念がないというのは「事の一心」実相に入るは「理の一心」である。
- 一心に帰して憑に更に二意無し。故に事一心と名づく。‥‥理の一心とは、此の心自他共に無く、因って不可得なりと達す。〔智顗の觀音義疏上、T34.0922c〕
三界唯一心。心外無別法。心仏及衆生。是三無差別
この4句1偈は『八十華厳』37、十地品の意と及び同10の偈である。
心は巧なる畫師の如くに、種々の五陰を畫く。一切世界の中、法として而して造らざるは無し。心の如く仏また然り。仏の如く衆生また然り。心仏及び衆生、是の三に差別無し。〔窺基の唯識二十論述記、T43.0981b〕
意味は、
- 三界の事物は悉く一心より起こり、心の外には別の事物なし、されば悟りの仏も迷いの衆生も悉く源を一心に帰し、心仏衆生の三は差別なし。
浄土真宗の一心
- 本願を信じて疑わず、二心のないこと。
- 天親菩薩の『浄土論』に、「世尊我一心帰命尽十方無碍光如来」〔浄土論、P.29〕とある一心のこと。天親菩薩が自らの信心の相をあきらかに述べられた詞で、「信巻」にはこの一心と『大経』に説かれる至心・信楽・欲生我国の三心との関係を論じて、「三心即一心」であるとする。参照:三一問答・三心一心
「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。〔信巻末、p.251〕
『論註』や『安楽集』に説かれる信心の三相の一つ。参照:三不三信
『小経』に説かれる一心のこと。『小経』には「一心にして乱れざれば」〔阿弥陀経、p.124〕とあり、親鸞はこの一心を「化身土巻」に
『小本』には一心とのたまへり、二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。また一心について深あり浅あり。深とは利他真実の心これなり、浅とは定散自利の心これなり〔化身土巻、p.393〕
と解釈している。