操作

きほういったい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

機法一体

 浄土真宗でいう機法一体は、1は光明と信と、2は名号と信心とについて言う。それぞれ横竪の二種あり。彌陀の光明の法と行者の信心の機とを相望して、自ら母子の闘係あるを論じ、所謂遍照の光明にはぐくまれて、歸命の信心の生ずと云ふは、是れ光明信心相望の竪の法なり。又名号の法と、信心の機とを相望して、自ら父子の闘係あるを論じ、名号全く信心と爲るといふはも是れ名号信心相望の竪の機法一体なり。
 これ曇鸞の光明破滿名号破滿の説に根源し、親鸞の光号因縁釈となり、覚如の『願願鈔』『最要鈔』に至りここに機法一体と称せられたり。又名号と信心とを相望して能帰の信心と所帰の名号とは一の南無阿彌陀佛に成就せられたるものなれば所行と能信と不離一体なりと云ふは、是れ名号信心相望の横の機法一体にして、善導の言南無者の釈に根源し、親鸞の行巻銘文、存覚の『六要鈔』、蓮如の『御文章』に來りて盛んに称へられたる所なり。
 又光明の摂取と行者の信心とを相望して、能照所照不離の一体となし他力救濟の極意を成ずるは、これ光明信心相望の横の機法一体なり。これ善導の往生礼讃の念佛衆生摂取不捨の釈に根源し、親鸞以下諸釈に彌滿せる所なり。如上の義相差別あるが如くなれども、要するに竪は法を機に属し機の上に談ずる機法一体にして、横は機を法に属し法の上に談ずる機法一体なり。その主とする所は名号と信心を相望する横の機法一体にして、南無の能帰はこれ行者自力の信にあらず、全く願力成就の南無阿彌陀佛なり。阿彌陀佛の所帰は単に四字成就の如來にあらず、南無の能帰に離れざる即是其行、選択本願の南無阿彌陀佛なり。
 信心の機にありても、六字一体なれば所帰の法の上にも六字一体なりと談じ、善導の願行具足を曇鸞の他力廻向に合し、もって他力信心の宗義を成ずる所以なり。
 浄土真宗では西山派を十劫非事として排す。

題意

 機法一体という用語は種々の意味に用いられるが、今は蓮如上人の示された機法一体の義を窺うもので、南無の機(信)は阿弥陀仏の法よりおこさしめられるのであって、名号のほかに別に衆生の信心の体はない旨を明らかにする。

出拠

一例をあげると、『御文章』三帖目第七通に、

しかれば南无の二字は衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。次に阿弥陀仏といふ四の字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆへに機法一体の南无阿弥陀仏といへは、このこゝろなり。

とある。

釈名

 「機」とは受法の機で、衆生のタノム機(信)を指し、「法」とは如来のタスクル法(名号)を指す。「一体」とは本来機法の体が一つであるという意である。よって、「機法一体」とは、行信は不二で、体は一名号であるということである。

義相

 機法一体を論ずるのに、二字と四字とに分釈する場合と、六字を皆機、皆法と釈する場合とがある。二字四字分釈いうのは、「南無」の二字を能帰の信、すなわち「衆生の弥陀をタノム機」とし、「阿弥陀仏」の四字を所帰の法、すなわち「如来の衆生をタスクル法」とする。このタノム機とタスクル法とが、一の南無阿弥陀仏に成就されているから機法一体という。
 しかるに、このように二字と四字とに分釈するのは拠勝為論であって、剋実通論すれば六字が皆機、皆法である。『御文章』三帖目第二通に、

その他力の信心といふは、いかやうたることぞといへば、たゞ南无阿弥陀仏なり」

(六字皆機)とか、同じく一帖目第十五通に、

南无阿弥陀仏の体はわれらをたすけたまへるすがたぞとこゝろうべきなり」

(六字皆法)とあるのがそれである。『散善義』の二河譬に、一の白道を衆生の願往生心(信楽)にたとえると共に、また如来の願力の道とされてあるのは、この六字皆機皆法の義に同じである。
 十劫正覚のとぎ、如来の方に「タノメタスクル(信じざせて摂取する)の法」を成就せられてあるから、これを衆生が領受したとき、「オタスケをタノム(摂取の願力を信受する)の機」が成ずる。タノム者をタスクルのでなければ摂取の法に非ず、摂取の法を領受したのでなければタノム機ではない。よって、タノム機(宿)はタスクル法(法体)と別ものではなく、信は法体名号よりおこさしめられるのである。

結び

 南無の機(信)と阿弥陀仏の法(摂取不捨の願力)とは別のものではなく、衆生の信も如来よりおこさしめられるものである。


西山派

 西山派では、衆生を救おうとしてさとりを開いた阿弥陀仏の慈悲心(仏体)がとりもなおさず衆生が浄土に生まれうるための原因(行体)であり、その慈悲心は常にはたらいて衆生を離れることがないから、南無とたのむ衆生の心と、阿弥陀仏の慈悲心とが一つになり、南無阿弥陀仏としての行体がなしとげられ、この衆生と仏とが仏の慈悲心において一つになることを機法一体という。

 西山派では、深草顯意の『竹林鈔』に見ゆるを始とし、『安心決定鈔』に盛んに之を論ず。其の意を按ずるに、
1に十八願の設我得佛と三方衆を対して生佛不二の機法一体とし
2に三信の願と十念の行とを相望して願(機)行(法)具足の機法一鐙を論じ
3に若不生者と、不取正覚とを相望して往生と正覚との機法一体を論ず。
 而かも生佛不二を法の上にも機の上にも談ずるもの是なり。

 彌陀大悲の胸の中に、かの常没の衆生、みちみちたるが散に機法一体にして南無阿彌陀仏なり。  〔安心決定鈔〕

と云へるは法の上の機法一体なり。吾等は之を知らざりしが故空しく流転せるなりと信じ、此の理をきくを正因とし一期念佛相続するを正行とす。其の正行の進みたるものは善導の如く現に声声の念佛悉く仏体を現ず。未進の者と雖も已に正覚の一念に生佛不二一体を成就し給ひたるを以て出息入息は是れ即ち仏体なりとす。