しょえ
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
目次
所依
adhiṣṭhāna: āśraya: niśrita: pratisaraṇatva: saṃniśraya
よりどころ。根拠。よられるもの。よられる客体となるもの。あるものが生じる、存在する、あるいは、あることを行なう、考える、などの根拠・よりどころ。たとえば、こころ(心・心所)にはかならず所依と所縁と行相とがあるというなかの所依とは、こころが生じるよりどころとしての感官(根)をいう。あるいは4つの元素(地・水・火・風の四大種)から物質(造色)が造られる場合、造色を能依、四大種を所依という。よられるものを所依というのに対して、よる主体となるものを能依という。
- 諸の心心所に皆な所依あり。然るに彼の所依に総じて因縁依・増上縁依・等無間縁依の三種あり
- 過去世の分別を因を為して能<現在の分別の所依と及び所縁の事とを生ず
- 入息・出息に身と心との二の所依あり
能依所依相属相者、大種為所依、造色是能依。〔『瑜伽』54、T30-597b〕 言所依者、是依止義。〔『述記』3本、T43-318c〕
pratisaraṇa
教えを聞いて修行する際の正しいよりどころ。四依
āśraya: saṃtati
身体と心よりなる個人として存在しつづけるよりどころ。そのようなよりどころとして原始仏教以来説かれるのが色・受・想・行・識の五蘊であるが、唯識では、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八識が説かれる。
そしてさらに八識のなかでも根本識である阿頼耶識が一切の存在を生じる根本の所依であると説かれる。このように所依をとらえる場合の能依は、すなわち個人は、仮に立てられた自己、すなわち仮我といわれる。所依を特に身体(有根身)だけに限る場合もあるが、そのときの能依はこころ(心・心所)である。また唯識では、阿頼耶識を所依、それから生じる転識を能依ととらえることもある。
- 勤めて瑜伽作意を修習するが故にあらゆる麁重倶行の所依が漸次に滅し、あらゆる軽安倶行の所依が漸次に転ずるを所依の滅と及び所依の転と名づく
- 諸の如来は三十二大丈夫相を以って其の身を荘厳するが故に所依最勝と名づく
- 所依の中の種子が已に損ぜらるるを不成就と名づく
言所依者、謂、有根身。段食於彼能為資益。言能依者、謂、心心所。触食於彼能為資益。〔『倶舎』10、T29-55c〕 略有二識。一者阿頼耶識、二者転識。阿頼耶識是所依、転識是能依。〔『瑜伽』63、T30-651b〕 所依者、身義体義。〔『雑集論』1、T31-694c〕