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じぞうぼさつ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

地蔵菩薩

KSitigarbha (S)

 大乗仏教の菩薩の一人。大衆の現世利益にこたえるかたちで、今日まで信仰されている。
 地蔵経典は多数現存しているが、その思想の成立は比較的遅く、菩薩思想史上では、ほぼ最後期に属すると推測され、そこには如来蔵思想を基盤として、大乗と小乗との対立を止揚しようとする意図も感じられる。それらの諸経典のうち、『大乗大集地蔵十輪経』10巻、『地蔵菩薩本願経』2巻、『占察善悪業報経』2巻を地蔵三経と呼ぶ。
 『十輪経』は玄奘訳であるが、北涼(397-439)失訳といわれる『大方広十輪経』8巻と同本異訳である。インドにその信仰が行なわれたか否かについては論議があるが、『大乗集菩薩学論』に<Arya->kSitigarbha-sUtra (『〈聖〉地蔵経』)と題する経典が、数度、引用されていることや、梵文『十地経(DazabhUmikasUtra)』やその他の経典にも地蔵菩薩が登場することから、遅くとも6~7世紀以降この菩薩がインドの人びとの帰依を受けていたことはたしかである。
 地蔵信仰は、その発生以後かなり急速にほぼアジア全域に広まっていったらしく、中央アジア、チベット、内陸アジア、朝鮮半島にひとしくその跡をとどめる彫像や絵画が残っている。日本では731年(天平3)に10巻本『十輪経』が書写されたのをはじめ、他の地蔵経も天平時代に写経されている。造像の記録も747年(天平19)のものがあり、8世紀前半に地蔵信仰の存在を認めることができる。

 8巻本『十輪経』によれば、地蔵菩薩は衆生を功徳と誓願力で救いとるという。衆生はその名号をとなえて、一心に帰依するならば、あらゆる苦悩がなくなり解脱して涅槃を得られるともいう。地蔵はいわゆる大悲闡提菩薩の系列に属し、慈悲にもとづいてさまざまに身を変えて衆生を救う。時には閻魔王や獄卒にも変身するという。また、釈尊入滅後、弥勒菩薩が成仏するまでの無仏時代に衆生教化にあたるともいわれる。この六道の衆生の救済は、『地蔵菩薩本願経』に説かれている。のちには、この六道に配される六地蔵の信仰が日本でさかんになった。中国では隋代に信行が地蔵信仰を中心として三階教をおこしたり、同じ頃卜占をとりいれた『占察善悪業報経』が偽作されたり、沙門蔵川が道教の十王思想を混淆して『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』を作製するなど、中国化した地蔵信仰が流行した。このような地蔵信仰を核とする偽経の作製は日本でもみられることで、『延命地蔵菩薩経』や『地蔵菩薩発心因縁十王経』などが平安末から鎌倉初期頃に作られ、地蔵信仰が日本化された。
 庶民のあいだでも地蔵は広く信仰され、さまざまな文学作品にも登場する。霊験譚も多数残されている。日本の地蔵信仰の特徴の一つは、寳の河原の思想と結びつき隆盛をみたことである。空也上人作に仮託されている『西院河原地蔵和讃』はあまりにも有名で、その変形和讃がいくつもできている。特に江戸時代からは子供の守護者として地蔵が脚光を浴び、安産、子育てのほとけとして親しまれている。六地蔵めぐり、地蔵盆、地蔵流しなどのかたちで生活のなかに定着し、地蔵講も各地にみられる。今日では水子供養や交通安全と結びつけた民間信仰が注目される。8巻本『十輪経』に地蔵は沙門形と記され、それを受けて一般に日本ではこの菩薩を僧の姿で表現している。
 なお地蔵菩薩の真言は「おんかかかびさんまえいそわか」が有名で、縁日は毎月24日である。密教では胎蔵曼茶羅地蔵院の主尊、金剛界曼荼羅では南方四親近の金剛瞳菩薩と同体とみ なされている。