じゅうはっかい
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
十八界
aṣṭādaśa dhātavaḥ ; dhātavo 'ṣṭādaśa (S)
人間存在の18の構成要素。六根と六境と六識とをいう。十二処のうち6つの内的な場(六入処)における識別作用をそれぞれ別に数えて、それらの間における対応関係を明示したもの。
である。六根(眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの知覚機官)と六境(色・声・香・味・触・法の対象の世界)と六識(眼・耳・鼻・舌・身・意の認識作用)とを合わせて18となる。
これらが個人存在を構成する。主客すべての世界。
一人の有情に属する諸法のことを蘊処界と呼び、五薀・十二処・十八界を指す。その一つである。
『倶舎論』vol.20に対する解釈で、「十八の類」と訳す学者もある。
六入 六境 六識
眼(視覚器官) 色(色かたち) 眼識(視覚)
耳(聴覚器官) 声(音声) 耳識(聴覚)
鼻(嗅覚器官) 香 鼻識(嗅覚)
舌(味覚器官) 味 舌識(味覚)
身(触覚器官) 触(冷熱など) 身識(触覚)
意(思考器官) 法(思考の対象) 意識(内覚)
最初のものでいえば、視覚の場合、視覚器官が捉える対象は色かたちである。たとえば、われわれの眼前に机があったとして、われわれの視覚器官が捉えるのは色かたちの象であり、その「基体」である実体、つまり「机」ではない。「これは机である」という判断は、もはや知覚の領域を超えている。と、このように仏教は伝統的に見るのである。
ただ、注意すべきなのは、後世の仏教徒たちは、こうしたことを根拠にして、「自己」をはじめとする実依概念の実存怪を否定する。「実体はわれわれの虚妄分別が提造したもの」だというのであるが、ゴータマ・ブッダの経験論は、そうした考えに立たない、ということである。
つまり、ゴータマ・ブッダは、知覚できるものを知覚できると端的にいったまでのことで、知覚できないものは実在しないなどとは一言もいっていない。