あま

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 20歳以上の独身、もしくは結婚経験があっても沙弥尼の期間を経て出家した女性。比丘尼。
ことに日本では、出家得度して剃髪し染衣(ぜんえ)をつけ、尼寺にあって修行する女性。尼入道尼女房尼御前(あまごぜ)尼御台 などと呼ばれ、中世には貴族出身者は さげ尼 と称して、髪を肩の辺りで削いでとなることができた。それ以降この風習が一般に広まり、夫と死別したり、離婚したり、老婆となった時など、姿かたちだけとなった。たとえば、源頼朝の妻の政子はとなり、政権を振い、尼将軍と呼ばれたなど。

 の語源は、サンスクリット語の「善良な女性」を意味する amb^a の俗語形の音写ではないかと考えられる。本来は比丘尼(びくに、bhikṣunī (S))のことであり、男子の出家修行者(比丘)に対して、女性の出家修行者をいう。
伝承では、最初の比丘尼釈迦の養母の摩訶波闍波提(まかはじゃはだい、mahāprajāpatī (S))であった。釈尊ははじめ女性の出家を許さなかったが、彼女の熱意と阿難のとりなしによって、比丘を敬い、罵謗(ばぼう)したりしないなど八つの事項を守ることを条件に、女性の出家を認めたという。

 日本最初のは、584年に蘇我馬子が出家させた司馬達等の娘 善信尼ら3人である。彼女たちは百済にわたって戒法を学び、590年に帰国して、桜井寺に住した。仏教伝来の当初、尼は神まつりする巫女と同じ役割を果たしたと思われる。天平13年(741年)、聖武天皇の発願で国分寺が諸国に設けられたが、同時に国分尼寺も置かれた。
 鎌倉仏教は、従来の女性軽視の立場を反省し、女性の救済を説いたが、法然は、当時、愚かものの代名詞の観すらあった尼入道に深い理解を示した。鎌倉・室町時代には、京都・鎌倉に尼五山が定められた。

 民間の巫女は修験の山伏と夫婦になって祈祷や託宣を行ったが、剃髪の風習が巫女にも及び、修験巫女は比丘尼とよばれた。このような比丘尼は各地を遊行し、これを背景に八百比丘尼の伝説が生まれた。
 熊野信仰を各地に広めた熊野比丘尼は六道図や熊野曼荼羅などを絵解きし、江戸時代に入ると宴席にはべる歌比丘尼となり、売春婦に転落するものもいた。
 女性が髪を肩のあたりで切ったのを尼削 (あまそぎ)というが、そのような髪形の童女をという場合がある。また近世以降少女または女性をいやしめて呼ぶときにという語を用いた。キリスト教の修道女もと称することがある。


読みは「に」である。「に」から転送された場合のために、ここにおいておく。


 みみのことは、「耳根」もしくは「耳王」と呼ぶ。