ぶっとう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
仏塔
仏教的な塔の総称。本来は釈尊の遺骨(舎利)を安置する場所で、原初形態はインドのストゥーパの覆鉢(ふくはつ)形と考えられる。
仏教の伝播、発展に伴い、各地で各種の形態が生じたが、日本での造塔の初めは、敏達14(585)年に蘇我馬子が建てた大野丘の塔。その後,多種多様の塔が営まれ、おもなものに重層塔、宝塔、多宝塔、宝篋印(ほうきょういん)塔、相輪塔、笠塔婆、瓶塔、五輪塔、宝珠塔、無縫塔(卵塔)、碑伝(ひで)、板碑がある。
サンスクリット語で「stūpa」は、本来ものが堆積して高くなり目立つ、という意味である。
通常は(2)の意味に用いる。
初期
中国、日本などの卒塔婆、塔婆、塔という語もストゥーパに由来する。
伝説によると仏陀の入滅後、火葬骨(仏舎利)が分割されて8基の仏塔が建てられ、アショーカ王の時代にこのうち7基を発掘して、再分割して8万4千基の仏塔が建てられたという。
初期のストゥーパは、サンチー大塔(前2~1世紀)のように、円形平面の基壇の上に半球形の覆鉢を築き、頂部に箱形の平頭(へいとう、ひょうず)を載せ、傘蓋(さんがい)を立てるのが原則であった。基壇の外側には繞道(にょうどう)をへだてて欄楯(らんじゅん。玉垣)をめぐらし、四方に塔門を開き、基壇、欄楯、塔門などにジャータカなどを内容とする具象的な彫刻を施している。参詣者は繞道を太陽と同じ方向(右回り)にめぐるのがならわしである。
ストゥーパの規模は直径40~50mから1mに満たないものまであり、戸外のほか堂内や石窟内に設けるものもあった。時代が下ると覆鉢が相対的に退化し基壇、平頭、傘蓋が複雑な形に発達した。
欄楯には、当初は菩提樹・法座・法輪などの象徴的なレリーフが彫られていた。それは釈尊は成道をもって涅槃に入ったのだから、肉体を離れた存在であり、真理(法)そのもの(法身)と一体視され、それを姿かたちで表現するのは適切ではない、という理由であった。
のちには、仏伝や前生話を表現したレリーフが描かれるようになった。これを説明するための法師によって、釈尊の生涯や教えが説かれた。これによって大乗仏教の発生したという説もある。
ひろがり
仏教がアジア各地へ伝播するにつれて、このようなストゥーパを祖形としながら特色のある多様な仏塔が生み出された。スリランカ(旧セイロン)におけるダーガバ、ミャンマー(旧ビルマ)やインドシナにおけるパゴダ、チベットにおけるラマ塔、中国、朝鮮、日本における層塔(三・五・七重塔)などがそれである。仏教徒のほかジャイナ教徒も、少数ではあるが聖者の遺骨や遺物を祀るストゥーパを建てた。