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もん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 差別と趣入のふたつの意義をもっている。教えに様々な差別があり、よく人を涅槃に趣入させるので、経典の教えを指してという。

門とは入出の義なり。  〔往生論註 下〕
門別とは同じからざる故に名を門と為す。また能通して人趣入すれば門と名づく。  〔大乗義章 1〕
門とは、能通を以て義と為し、仏教の所詮の正しき四句の法なり。行人に通じて真性の実相の理に至る。故に名を門と為す。  〔天台四教儀 1〕

dvāra

 (家の)出入り口。

 門・窓、及び口・鼻などの内外の竅隙を名づけて空界と為す。

āya-dvāra: mukha

 (物事が入る)入り口。

 彼の一切の広大な資財に於て心が好んで受用し、大事業を楽って狭小なる門に非ず。
 種種の趣入するところの門を示現す。

dvāra: mukha

 (物事が生じる)出口。

 思は意業を以って門と為して転ず。
 眼を以って門と為して唯だ色を見ることを為す。

paryāya: mukha

 部門。区分。

 縁起の門とは云何。謂く、八つの門に依って縁起は流転す。
 有性・無性・有色・無色の如く、是の如く、有見・無見などの差別し仮立せし門も是の如き道理に由って一切皆な了知すべし。

paripraśna: pṛcchā: pṛṣṭa: pṛṣṭtavat: prach: praśna: praśnayati

 (疑問点などを)問う、たずねる、質問すること。問訊とおなじ。

 事が希奇なれば、或いは暫く他に問い、或いは他の問に答う。
 世は有辺と為すや無辺と為すや、などと問うことあれば、此れは捨置すべし。

paripṛccha

 (挨拶語をもって)問うこと、言葉を交わすこと。

 菩薩は恒時に諸の有情に対して、野顔し平視し含笑し、先となって、或いは安隠・吉祥を問い、或いは諸界の調適を聞き、或いは昼夜の怡楽を問う。

mūrchā (S)
 気絶。気絶している感触。触覚(身識)の対象である感触(触)の一つ。

 悶の触に由って心の悶を引生す。
 云何悶。謂、由風熱乱故、或由錘打故、或由濾故、如過量転痢及出血、或由極勤労、而致悶絶。〔『瑜伽』1、T30-281a〕

śravaṇa: śru: śruta (S)
 4つの認識のありよう()の一つ。(音声や言葉などを)耳で聞くという認識作用一般をいう。

 所知に於て能く正しく観察するが故に名づけて見と為し、所知の境界の言説を聴聞するが故に名づけて聞と為す。
 眼が見、耳が聞き、乃至、意が了す。

 教え(正法)を聞くこと。聴聞とおなじ。→聞慧

 耳にきく。思、修に対する。経典などによって教説をうけ信じることをいい、「聞法」「聞信」などと熟語にする。
 北本『涅槃経』巻36迦葉菩薩品には、

仏の教説の一半のみを信ずるもの、他人に解説できぬもの、議論のためや名誉や利益を得るために教説を身にたもつものを聞不具足(聞いても本当には聞いていない)とする。

とある。
 『無量寿経』巻下には、

阿弥陀仏の名号を聞いて信じよろこぶ一念で浄土に生まれ不退の位に住することができる

(聞其名号・信心歓喜・乃至一念・即得往生・住不退転)とあり、これを浄土真宗では、

聞とは本願の趣意を聞きわけて疑いのないこと

即ち信と同じ意であるとする。
 また仏の光明が衆生をおさめとって救うはたらきがあると信ずることを「聞光力」という。