カテゴリー
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
カテゴリー
インド人は、さまざまな基準によって世界のすべてのものごとを分類した。その分類のなかでも、最も基本的な分類によるものごとのグループを、ヴァイシェーシカ派とニヤーヤ派は「パダールタ」(padartha、句義)と呼び、 サーンキヤ派は「タットヴァ」(tattva、諦)と呼び、ジャイナ教徒は「アスティカーヤ」(astikāya)と呼び、仏教徒は「スカンダ」(skandha、蘊)、「ダルマ」(dharma、 法)などと呼んだ。
「カテゴリー」と訳される上述のインドのことばのうち、ヴァイシェーシカ派の「パダールタ」というのが、西洋哲学本来の「カテゴリー」に最も近い。まず、パダールタというのは、もともと「パグ」(語)の「アルタ」(対象、意味)である。また、実際にパダールタとして数えられる実体、性質、運動などは、それぞれ、文法上の名詞、形容詞、動詞などにほぼ対応する。
パダールタ
パダールタという語を術語として使ったのは、文法学派のパタンジャリ(Patañjali)が最初であった。彼によれば、たとえば、「白い牛が歩く」という文の場合、そこに出てくる「白い」「牛」「歩く」という語(パグ)が意味するところ(アルタ)は、それぞれ、「白さ」という性質、「牛」という実体、「歩行」という運動であるという。おそらく、これは、形容詞、名詞、動詞という、基本的な品詞の分類根拠を、それに対応する「ものごと」の側における分類に求めるという発想にもとづくものと思われる。
ヴァイシェーシカ派は、この文法的発想を土台として、パダールタ理論を展開した。『プラシャスタパーダ・バーシヤ』以降、基本的には、パダールタは、実体(dravya、実)、性質(guṇa、徳)、運動(karman、業)、 普遍(sāmānya、同)、特殊(viśeṣa、異)、内属(samavāya、和合)の6つであるとされる。このうち、前3者は本来の意味での「ものごと」(アルタ)であり、後3者は、その「ものごと」にいわば付随するものごとである。たとえば、実体と性質とは、切っても切れない不可分離の関係にあるが、こうした関係のことを「内属」というのである。やがて、一部の人びとのあいだから、否定辞(「~でない」、「~がない」)に対応するものごと、つまり「無」(abhāva)もまた独立のパダールタであり、したがって、パダールタには7つあるとする見解が現われた。
そのほか、ヴァイシェーシカ派には、10パダールタ説もある。上の7パダールタに加えて、普遍かつ特殊(sāmānyaviśeṣa、倶分)、力能(śakti、有能)、無能力(aśakti、無能)を数えるもので、『勝宗十句義論』だけの説である。「普遍かつ特殊」というのは、最高の普遍としての「有性」(sattā)と、不可分単一の原子などに存する究極的な特殊との中間に位置するもので、「実体性」とか「牛性」とかのことである。「力能」とは、特定の結果を生みだす原因の本性としての能力のこと、「無力能」とは、特定の結果以外のものを生みださないという原因の本性としての無能力のことをいう。
ジャイナ教
ジャイナ教は、変化(pariṇāma)も真の実在と認める、多元的実在論の立場をとる。すなわち、存在(sat)は実体(dravya)と根本的な属性(guṇa)とそれに付随した変化の様式(paryāya、様相)の3者からなり、それらはいずれも真の実在として認識しうるものであるという。また別の本体論的なカテゴリーとしては、宇宙を構成する基本的要素を5種の「存在の塊」(astikāya)、すなわち霊魂(jīva)、物質(pudgala)・空間(ākāśa)・運動の条件(dharma)・静止の条件(adharma)に分類する。物質以下は一括して非霊魂(ajīva)と称され、時には時間(kAla)もそのなかに含められる。「存在の塊」は永遠不滅であり、それによって世界(loka)と非世界(aloka)からなる宇宙が形づくられている。ただし、非世界に存在するのは空間のみである。時間を除いたすべての「存在の塊」が空間の微点(pradeśa)を占有しうる能力をもつ。霊魂は純粋に精神的である。有形な物質以外はすべて無形(arūpa)であり、感覚器官では知覚されない。物質の最小単位を原子(paramāṇu)といい、色・味などの属性をもつが、原子の状態では知覚されず、それらが結合しあって分子(skandha)などを形成し、はじめて知覚の対象となる。善悪の行為によって生ずる業(karman)も物質の一種である。運動の条件と静止の条件は、それぞれ事物の運動と静止の媒介となる実体で、前者は魚の運動に必要な水、後者は旅人の休息のための樹蔭にたとえられる。より包括的であり、ジャイナ教の学説全般を集約するカテゴリー論として、7つの原理(tattva,padārtha)が説かれる。7つとは、霊魂・非霊魂のほかに、流入(āsrava)・束縛(bandha)・防止(saṃvara)・除去(nirjarā)・解脱(mokṣa)を加えたものである。霊魂は、本来純粋でいかなる汚れももたないが、業のために輪廻の世界でさまざまな生きものの形態をとり、苦しみの生存を繰り返す。流入とは業が霊魂のなかに流れこむことを意味し、苦悩の原因をいう。束縛はそのようにして霊魂が業のために輪廻する状態を意味し、苦悩の実情を示す。防止と除去は、業の新たな流入の阻止とすでに流入した業の除滅を意味するものであり、これらの二原理によって業・輪廻の脱却のための方法論が提示される。解脱の原理は、防止と除去によって必然的にもたらされるべき業・輪廻からの解放を意味する。すなわち、霊魂が純粋で汚れのないその本性をとりもどした段階をいう。
仏教
仏教では、ヴァイシェーシカ派の語るパダールタ(padārtha)、すなわちことばの対象を、ことばそのものの品詞分類との関係においてカテゴライズ(範疇化)する、という発想は希薄である。どちらかといえば、意味論的な関心よりも、ひとの迷いの生存のあり体を解析し、その迷妄を自覚させることに仏教は力点をおく。この場合、悟りとは迷いの自覚にほかならず、ことばの主たる役割は、ひとを転迷開悟に導くための不可欠な手だてである。したがって、無我を説明するうえで、ひとの認識構造は五蘊に分類され、また、生存の流転を明らかにすべく、縁起法が六支、九支、十支、そして十二支と支分化されて解説されることになる。
さらにまたアビダルマ仏教は、仏教初期のさまざまな教説を整理し、発展させて、ひとの迷悟の生存を、5類(五位)、75種の要素(七十五法)に分類している。しかしながら仏教においても、以上のような、分類内容としての法ばかりでなく、むしろ分類の範疇、すなわち分類の基本的な枠ぐみそのものを意味すると考えられる教法はある。
宝性論
『宝性論』には、有垢真如である如来蔵(tathāgata-garbha)の十義と、無垢真如たる転依(āśrayaparāvṛtti)の8義が説明される。そしてこれらの義(artha)のなかの、はじめの6義については、両者に共通で、本質(体、svabhāva)、原因、結果、行為(業、 karman)、相似性(相応、yoga)、生起(行、vṛtti)の6種である。これらは、如来蔵、あるいはその有垢性を遠離した転依を解説する際の、異なる観点、異種の枠ぐみに相当するもので、具体的な内容は、それぞれの枠ぐみのなかで説明されている。
妙法華
羅什訳『法華経』の方便品第2では、
- 唯、仏と仏とのみが乃ち能く諸法実相を究尽する。いわゆる、諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等である。 〔T09.0005c〕
と、諸法の十如是が説かれている。この十如是の説は、存在するすべてのものが具有する特質を十種の観点から説明するもので、天台教学における一念三千説の基礎となっている。存在するものの特質を、形相(相)、性質(性)、本体(体)、能力(力)、作用(作)、直接原因(因)、補助的原因(縁)、原因に対する結果(果)、報いとしての結果(報)、そしてこれらの相から報までが皆、平等に具有されていること(本未究竟等)の10種の観点から捉える説である。
大乗起信論
『大乗起信論』には、真如の体、相、用という三大が説明される。体とは、増減なく恒常である真如の自体を指し、相とは、その真如が、如来蔵として無量の性徳をそなえているというすがた、特質をいう。『起信論』では、この真如の体と相は理智不二の法身を示す。これに対して、真如の用とは、諸仏が報身、あるいは応身として衆生を教化するはたらきを意味する。そしてこれらの体と相と用は、いずれも仏のあり方として広大無辺であるため、三大と呼ばれる。