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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

jñāna (S)、ñāṇa (P)、闍那とも音訳される。

 一切の事理に対し決定して能く了知する精神作用をいう。

 決定の義は是れ智の義なり。    〔大毘婆沙論 106, T27-547a〕
 決定して知り、疑ふ所なきが故に名づけて智と為す。    〔大智度論 23, T25-229a〕
 智は謂はく決断、或は謂はく重知なり。    〔倶舎論光記 26, T41-83b〕

 七十五法および百法の中では、およびと共に心所に修められている。このうち、見は推求推度を性とし、忍は忍可してその疑いまだ已に断ぜられないのを云うのに対して、智は重ねて了知してよく所断の疑を決断する。およそ智は、世間出世間の一切の事理に対し決定了知する精神作用をいうものである。

 智に2種あり、一には正智、二には邪智なり。この中、正智は有事に依りて生ず、邪智も亦爾り。此の二智は倶に有事に依ると雖も、然れども正智は実の如く事を取らず。    〔瑜伽師地論 88, T30-793a〕

これは、外道の邪教非理作意によって生ずる智を邪智として、佛の正教如理作意によって生ずる智を正智と言っている。

 〔楞伽阿跋多羅宝経 3, T39-392c〕では、智を

  1. 世間智    laukika-jñāna    諸の外道凡夫が一切諸法の有無に執着する
  2. 出世間智   lokottara-jñāna   諸の声聞縁覚が自相同相を虚妄分別する
  3. 出世間上上智 lokottratama-jñāna 佛菩薩が一切諸法不生不滅なりと観じ、有無の二見を離れる

の3つに分けている。
 初期仏教では、主として苦集滅道の四諦に対して如実に知見すべきことを説いている。

 爾の時世尊、五比丘に告ぐ、此の苦聖諦は本と未だ嘗て聞かざる所の法なり、当に正思惟する時、眼智 cakkhu-karaṇa、明覚 ñāṇa-karaṇī を生ずべし。此の苦の滅、此の苦滅の跡道諦は本と未だ嘗て聞かざる所の法なり、当に正思惟する時、眼智明覚を生ずべし。    〔雑阿含経 15, T2-103c〕

 これは仏成道の初期、五比丘の為に四聖諦を説いて、これによって眼智明覚が発生すべきことを示されたことを伝えたものである。

 或いは一智に一切の智を摂するあり、謂はく法智にして如法智に非ず。智の体は是れ法なるを以ての故なり。或いは二智に一切の智を摂するあり、謂く有漏智無漏智なり。或いは三智に一切の智を摂するあり、謂く法智、類智、世俗智なり。或いは四智に一切の智を摂するあり、謂く前の三智に他心智を加ふ。或いは五智に一切の智を摂するあり、謂く世俗智及び苦集滅道の智なり。或いは六智に一切の智を摂するあり、謂く前の五智に他心智を加ふ。或いは七智に一切の智を摂するあり、謂く八智中より他心智を除く。或いは八智に一切の智を摂するあり、謂く此の中に法智、類智、他心智、世俗智、苦智、集智、滅智、道智を説く。    〔大毘婆沙論 106,T27-546c〕

 この中、苦智(duḥkha-jñāna)は苦諦の理を知り、集智(samudaya-jñāna)は集諦の理を知り、滅智(nirodha-jñāna)は滅諦の理を知り、道諦(mārga-jñāna)は道諦の理を知るを云う。また法智(dharma-jñāna)は三界の中、特に欲界の四諦を観ずる智である。類智(anvaya-jñāna)は、色無色界の四諦を観ずる智であり、これらの6智はすべて無漏である。
 世俗智(saṃvṛti-jñāna)は世俗の境を縁ずる智なので有漏智である。他心智(paracitta-jñāna)は他人の心を知る智であって有漏無漏に通じている。
 またこの8智に尽智(kṣaya-jñāna)、無生智(anutāda-jñāna)の2を加えて十智とする。就中、尽智は無学位において我れ已に苦を知り、我れ已に集を断じ、我れ已に道を修せりと徧知し、漏尽の得と倶生する無漏智を言い、無生智は無学位において我れ已に苦を知る、復た更に知るべからず。我れ已に集を断ず、復た更に断ずべからず。我れ已に滅を証す、復た更に証すべからず。我れ已に道を修す、復た更に修すべからずと徧知し、非択滅の得と倶生する無漏智をいう。

 如実智とは10種の智は知ること能わざる所なり。如実智を以ての故に能く十智の各各の相、各各の縁、各各の別異、各各の有観の法を知る。是の如実智の中には相なく縁なく別なく、諸の観法を滅して亦有観ならず。十智の中には法眼慧眼あり、如実智の中には唯佛眼のみあり。十智は阿羅漢辟支仏菩薩に共に有り、如実智は唯独り佛にのみ有り。所以は何ん。独り佛にのみ不誑の法あり、是れを以ての故に如実智は独り佛にのみ有り。復次に是の十智は如実智の中に入れば名字を失ひ、唯一実智のみあり。譬へば十方諸流の水皆大海に入れば本の名字を捨てて但だ大海と名づくるが如し。    〔大智度論 23,T25-234a〕
 菩薩摩訶薩、道慧を具足せんと欲せば当に般若波羅蜜を習行すべし。菩薩摩訶薩、道慧を以て道種慧を具足せんと欲せば当に般若波羅蜜を習行すべし。道種慧を以て一切智を具足せんと欲せば当に般若波羅蜜を習行すべし。一切智を以て一切種智を具足せんと欲せば当に般若波羅蜜を習行すべし。    〔大品般若経 1序品, T8-218c〕
 若し諸の菩薩は菩薩蔵に於いて已に能く聞縁し、善く修習するが故に能く静慮を発す。是の如きを智波羅蜜多と名づく。此の智に由るが故に出世間の慧を引発するに堪能なり。是の故に我れ智波羅蜜多は慧波羅蜜多のために助伴と為ると説く。    〔解深密経 4地波羅蜜多品, T16-705b〕

 これは、智波羅蜜(jñāna-pāramitā)をもって方便助伴とし、慧波羅蜜(prajñā-pāramita)をもって正智とする、ということである。