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この間、蓮如は南近江や[[みかわもんと|三河門徒]]の支援を受けつつ、事態終息のために比叡山に礼銭(賠償金)を支払い、譲状を書くなどした。 | この間、蓮如は南近江や[[みかわもんと|三河門徒]]の支援を受けつつ、事態終息のために比叡山に礼銭(賠償金)を支払い、譲状を書くなどした。 |
2021年7月14日 (水) 11:12時点における最新版
寛正の法難
寛正6年(1465)に東山大谷にあった本願寺に対して比叡山から加えられた弾圧のこと。大谷破却ともいう。
蓮如が近江国(現在の滋賀県)湖西・湖南地域に教線を拡大させると、比叡山はその教えを邪法であるとして、寛正6年1月に本願寺を襲撃し、警護番の堅田衆・赤野井衆らを破って本願寺を破却した。蓮如は大谷を逃れて南近江を中心に各地を転々とし、また親鸞の真影は金森・堅田などに移された後、文明元年(1469)に三井寺の南別所に安置された。
この間、蓮如は南近江や三河門徒の支援を受けつつ、事態終息のために比叡山に礼銭(賠償金)を支払い、譲状を書くなどした。