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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(苦行)
(苦行)
 
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 苦行の結果、身につく神秘力・神通力の中には、過去と未来を知る能力、前世を知る能力、他人の心の中を知る読心術、千里眼、水上歩行などが数えられ、苦行者の超能力は神々をも畏怖せしめたとして各種の神話・伝説・物語が伝えられている。ただし仏教ではこれら神通力は行者の修行の間にたまたま現れて来る副次的なものとされ、それを誇示したり、濫用したりすることは厳に戒められ、それは瑜伽学派にも一貫した姿勢であった。<br>
 
 苦行の結果、身につく神秘力・神通力の中には、過去と未来を知る能力、前世を知る能力、他人の心の中を知る読心術、千里眼、水上歩行などが数えられ、苦行者の超能力は神々をも畏怖せしめたとして各種の神話・伝説・物語が伝えられている。ただし仏教ではこれら神通力は行者の修行の間にたまたま現れて来る副次的なものとされ、それを誇示したり、濫用したりすることは厳に戒められ、それは瑜伽学派にも一貫した姿勢であった。<br>
 
 古典サンスクリット文学にあって、行者が苦行によって得た神秘力は、怒って他人を呪うこと、および愛欲に迷って女性と交わること、によって完全に消滅するものと考えられていた。同時にそれは苦行者の呪詛(じゅそ)の必中性を保証し、行者の胤として女性に宿った子孫の非凡性を約束していた。いずれも苦行の熱力の外的顕現と考えられていた故である。
 
 古典サンスクリット文学にあって、行者が苦行によって得た神秘力は、怒って他人を呪うこと、および愛欲に迷って女性と交わること、によって完全に消滅するものと考えられていた。同時にそれは苦行者の呪詛(じゅそ)の必中性を保証し、行者の胤として女性に宿った子孫の非凡性を約束していた。いずれも苦行の熱力の外的顕現と考えられていた故である。
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  もともと、苦行とは、インドにおいて生死輪廻〈しょうじりんね〉と、そこでおこる苦しみからの解放をねがって実行される苦しい修行のことをいう。<br>
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 インドにおいて古く輪廻という考え方が人々の間に定着するようになると、人々はこの輪廻からの脱却を願って、解脱涅槃の境地を求めようとした。思うようにならない、この現実苦が死後においても、永久に続いてゆく、そして人間は未来永劫に苦しみをうげねばならないという思想の中で彼らは苦しんだ。そして、そのような輪廻の苦をたちきろうとして苦行を実行し、死後の生天を願い楽を得ようとの願をもったのである。<br>
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 というのは、現実のこの苦は前生の報いであると考えた彼らは、この過去の結果としての苦を積極的に苦しみ、早くそれを精算して、未来の楽果を求めようとしたのである。このような考えをもった人々を宿作外道〈しゅくさげどう〉と仏教の側からよんでいるが、この人々は世の中には苦と楽とよりほかにはないとし、過去の因により、いま苦果をうけたのだから、これを早くなしおえて楽果をえようと期待したのである。<br>
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 さて、かれらの実行した苦行がどのようなものであったかについては、経典中にいろいろと伝えられている。たとえば『涅槃経』などの所説である。また『百論』などにも仏教側からするいろいろの説明がなされている。が、これらを六種にまとめてみることが古来行われている。すなわち⑴自餓 ⑵投渕 ⑶赴火 ⑷自坐 ⑸寂黙 ⑹牛狗の六種である。<br>
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 まず、自餓とは自ら飲食を求めずして、長く飢餓にたえる苦行をいう。投渕とは寒い時期に深い渕に入って、そこで凍りつくような寒さをうげ、それをたえしのぶ苦行をいう。赴火とは身体を酷熱にさらし、その熱悩にたえる苦行をいう。自坐とは常に自ら裸形にして、寒い時も暑い時も、屋外に坐して、その苦を忍受する苦行をいう。寂黙とは屍林や墓場などで生活し、他と全く言葉を語らずして、孤独に堪える苦行をいう。牛狗とは自分は前世に牛や狗の世界にあったとして、草を食し、汚物をとって牛狗と同じように生活し、生天を願って苦行することをいうのである。<br>
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 これらの種々の苦行を修行して、苦の解消を願って、未来に楽のみの世界を期待したのである。すなわち、このような人々は、人生には苦楽の二面のみがあるとし、その苦の一面をなくしてしまえば、他の楽の一面のみが残ることとなるから、苦痛を自ら継続して受けることによって苦をなくしてしまおうとしたのである。<br>
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 ところで、人間が苦を感ずるのは自分の思うままに外の世界が動かないことによる。しかもその根本は自分自らが思うようにならないという点にあるといえるであろう。このような点から、人間の苦の根本である人間の自由を束縛するものは肉体そのものと、肉体的欲望にはかならないといえるであろう。そこで、この肉体的欲望を克服して自由をうるためには、肉体的欲望を克服できるほど強い精神力を養うか、肉体的欲望それ自身を亡ぼすかという二様の道が考えられる。前者の道を実行するものを修定主義者といい、後者の道を歩むものを苦行主義者というのである。<br>
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 釈尊当時、インドにはこの二つの流れがあり、修定主義者たちはそのよりどころとして転変説を奉じた。この流れに属する人は、多くバラモンに属する人々であった。ところが、苦行主義者たちは、積集説に立ち、当時一般に沙門といわれた人々であった。釈尊は成道以前、この二つの流れにあって修行をされたといわれている。すなわち、アーラーラーカーラーマ仙、ウッダカーラーマプッタ仙にしたがって修行され、さらに苦行林で苦行を修行されたのである。<br>
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 しかし、これらによっては真実の苦の解決はありえないとして、釈尊はやがて独自の方法によって、この目的を達成されたのである。それでは、なぜこれらによって真の苦の解決ができないのであろうか。その原因にはいろいろの考え方ができるであろうが、転変説にしても積集説にしても、これらの基盤となっているものは身心二元論の立場であり、この二元論的立場に問題があるように思われる。<br>
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 すなわち、精神と肉体との二元論的立場をとるとするならば、精神をいかに強力なものに鍛練しえたとしても、また肉体的欲望を亡ぼしえたとしても肉体そのものをなくしない限り、苦はなくならないであろう。とすれば真の解脱はこれを死後に期待するよりほかにない。ここに、これらの人々が死後生天を願った理由があるのである。しかも、死後の生天を信じえたのは、かれらが輪廻転生の立場に立っていたからである。<br>
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 ところで、釈尊は修定の実行によって精神的には高い境地に到達されたが、それによって生死輪廻の苦を真に克服しうるとは考えられなかった。というのは現実に如何に深い禅定にあるとしても、それを出ればやはり散乱心をまぬがれることはできない。とすれば、死後必ず、それぞれの禅定に応ずる天国に生ずるとの保証は果してありうるのかという疑問にぶっつかられたのであろう。<br>
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 そこで、次に、肉体的欲望それ自身を亡ぼす苦行の実行をされた。しかし、そこでも苦行による身体の衰弱は死をもたらすだげで、それの果として楽のみの世界があるとの保証をうることはできなかった。そこで、釈尊はこれらを捨てて独自の方法(止観)によって苦克服の道を発見されたのであり、それを非苦非楽の中道といわれたのである。この意味で仏教では苦行主義による苦行はとらないのである。<br>
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 ところが、仏教が中国、日本と伝来するうちに、いつの間にか、苦行主義的な傾向が仏教内でとられるようになり、それが賞讃されるような傾向をもってきた。いわゆる荒行といわれるような寒中に滝にうたれるような行が実行されたり、天台宗が回峯行を実行したりするようなことになった。しかし、仏教が再びとりあげたこのような修行は、いわゆる精進波羅蜜として、人間の懈怠(なまけ心)を克服するためのものであり、その苦行による楽の果を期待するというものでない点は注意すべきである。
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=恭敬=
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<big>namas-kāra; gaurava</big> (S)
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 敬い、つつしむ。尊敬。仰ぎみる。うやうやしくすること。他に対して敬うこと。敬い尊敬すること。〔倶舎論1〕〔無量寿経 T12-269c〕
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==Gaurava==
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 釈尊がおさとりになった直後の時期に、次のようなことをお考えになったことが記録されている。
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 かようにわたしは聞いた。
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 ある時、世尊は、ウルヴェーラー(優留毘羅)村の、ネーランジャラー(尼連禅)河のほとりなる、アジャパーラ・ニグローダ(阿闍波羅尼倶律陀)の樹下に住しておられた。まさに正覚を成じたまいし時のことであった。
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 その時、世尊は、ただひとり坐し、静かに物思いして、かように考えたもうた。
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「尊敬するところもなく、恭敬するものもない生き方は苦しい。わたしは、いかなる沙門もしくは婆羅門を尊び敬い、近づきて住すればよいであろうか」
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 だが、その時また、世尊は、かように考えたもうた。
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「もしわたしに、いまだ満たされない戒に関することがあるならば、それを成満するために、他の沙門または婆羅門を尊び敬い、近づきて住するがよいであろう。だが、わたしは、天界・魔界・梵天界をも含めたこの世界において、また、沙門・婆羅門ならびに人間界・天上界の住みぴとをも含めた衆のなかにおいて、わたしよりもよく戒を成就して、尊び敬い、近づきて住するに値するような沙門もしくは婆羅門を見ることはできない。
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 また、もしわたしに、いまだ満たされない定に関することがあるならば、……いまだ満たされない慧に関することがあるならば、……いまだ満たされない解脱に関することがあるならば、……いまだ満たされない解脱知見に関することがあるならば、それを成満するために、他の沙門または婆羅門を尊び敬い、近づきて住するがよいであろう。だが、わたしは、天界・魔界・梵天界をも含めたこの世界において、また、沙門・婆羅門ならびに人間界・天上界の住みびとをも含めた衆のなかにおいて、わたしよりもよく解脱知見を成就して、尊び敬い、近づきて住するに値するような沙門もしくは婆羅門を見ることはできない。
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 とすると、わたしは、むしろ、わたしが悟った法、この法をこそ、敬い尊び、近づきて住するがよいであろう」
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 その時、この娑婆世界の主たる梵天は、その心をもって、世尊の心中の思いを知り、たとえば、力ある男子が屈したる腕を伸し、伸したる腕を屈するがごとく、たちまちにしてその姿を梵天界に没して、世尊のまえに現れた。
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 そこで、梵天は、一肩に上衣を掛け、世尊を合掌し、礼拝して、いった。
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「世尊よ、そのとおりである。世尊よ、そのとおりである。世尊よ、過去の正等覚者にてましました世尊も、法を尊び敬い、近づきて住した。また、未来の正等覚者にてまします世尊も、法を尊び敬い、近づきて住するであろう。そして、いまの正等覚者にてまします世尊も、法をこそ尊び敬い、近づきて住するがよろしい」
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 梵天はそのようにいった。そしてまたつぎのように説いた。
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「過去の世の正覚者も
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 未来のもろもろの仏たちも
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 また、いまの世の悟れる者も
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 衆生の憂悩を滅する者は
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 すべて正法を敬いて住したもう
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 いまも正法を敬いて住したまい
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 未来も正法を敬いて住したもうくし
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 こは諸仏にとりて法としてしかり
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 されば、自己の幸いをねがい
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 大いなる状態をのぞむ者は
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 よく仏のおしえを憶念して
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 正法を敬わざるべからず」    〔''Samyutta Nikāya'' I, 6, 1; 相応部経典,梵天相応 1. 恭敬; 雑阿含経 44, 11, 尊重〕

2023年8月29日 (火) 18:46時点における最新版

苦行

tapas तपस्,duṣkara-caryā दुष्करचर्या (S)

 古くからインドは「苦行の故地」と称せられ、紀元前4世紀インドに侵入したアレキサンダー大帝以下のギリシア人も苦行者を見、7世紀入竺した玄奘も彼らの行法を目撃し、15世紀以降インドを訪れた初期の西洋人も奇異の眼をもってインドの苦行者のことを報告している。沈黙の戒・禁欲・断食など、肉体的欲望を抑える修行・苦行の類は多かれ少なかれあらゆる宗教のすすめるところであるが、インドの苦行はとりわけ際立っているように思われる。原始仏教興起時代にも沙門の名の下に世俗を捨てた行者の群が言及され、もまた成道前に苦行に身を挺したと伝えられる。インドの法典や宗教文献も苦行者を分類して4種とも6種ともしている。

 もと難行・苦行とは人間自然の欲望を抑えて精神力を鍛えることを目的としていた。饒舌を抑えては沈黙の戒となり、食欲を抑えては断食、性欲を抑えては禁欲となる道理である。人はこれらに耐えて精神力を涵養(かんよう)するが、更により積極的・人為的に肉体を苦しめることを奨めた。かくて酷熱の太陽の下で四方に火を置いて暑さに耐え、また冬に水に籠って寒さに耐え、腕を挙げ、一足にて立ち、蹲踞(そんきょ)の姿勢を保つなど、長期間同一姿態を保つ「荒行(あらぎょう)」へと発展し、これらの身体的苦痛に耐える間に強度の神秘力・神通力を己れの内に蓄積すると信じられていた。

 苦行の結果、身につく神秘力・神通力の中には、過去と未来を知る能力、前世を知る能力、他人の心の中を知る読心術、千里眼、水上歩行などが数えられ、苦行者の超能力は神々をも畏怖せしめたとして各種の神話・伝説・物語が伝えられている。ただし仏教ではこれら神通力は行者の修行の間にたまたま現れて来る副次的なものとされ、それを誇示したり、濫用したりすることは厳に戒められ、それは瑜伽学派にも一貫した姿勢であった。
 古典サンスクリット文学にあって、行者が苦行によって得た神秘力は、怒って他人を呪うこと、および愛欲に迷って女性と交わること、によって完全に消滅するものと考えられていた。同時にそれは苦行者の呪詛(じゅそ)の必中性を保証し、行者の胤として女性に宿った子孫の非凡性を約束していた。いずれも苦行の熱力の外的顕現と考えられていた故である。


  もともと、苦行とは、インドにおいて生死輪廻〈しょうじりんね〉と、そこでおこる苦しみからの解放をねがって実行される苦しい修行のことをいう。
 インドにおいて古く輪廻という考え方が人々の間に定着するようになると、人々はこの輪廻からの脱却を願って、解脱涅槃の境地を求めようとした。思うようにならない、この現実苦が死後においても、永久に続いてゆく、そして人間は未来永劫に苦しみをうげねばならないという思想の中で彼らは苦しんだ。そして、そのような輪廻の苦をたちきろうとして苦行を実行し、死後の生天を願い楽を得ようとの願をもったのである。
 というのは、現実のこの苦は前生の報いであると考えた彼らは、この過去の結果としての苦を積極的に苦しみ、早くそれを精算して、未来の楽果を求めようとしたのである。このような考えをもった人々を宿作外道〈しゅくさげどう〉と仏教の側からよんでいるが、この人々は世の中には苦と楽とよりほかにはないとし、過去の因により、いま苦果をうけたのだから、これを早くなしおえて楽果をえようと期待したのである。
 さて、かれらの実行した苦行がどのようなものであったかについては、経典中にいろいろと伝えられている。たとえば『涅槃経』などの所説である。また『百論』などにも仏教側からするいろいろの説明がなされている。が、これらを六種にまとめてみることが古来行われている。すなわち⑴自餓 ⑵投渕 ⑶赴火 ⑷自坐 ⑸寂黙 ⑹牛狗の六種である。
 まず、自餓とは自ら飲食を求めずして、長く飢餓にたえる苦行をいう。投渕とは寒い時期に深い渕に入って、そこで凍りつくような寒さをうげ、それをたえしのぶ苦行をいう。赴火とは身体を酷熱にさらし、その熱悩にたえる苦行をいう。自坐とは常に自ら裸形にして、寒い時も暑い時も、屋外に坐して、その苦を忍受する苦行をいう。寂黙とは屍林や墓場などで生活し、他と全く言葉を語らずして、孤独に堪える苦行をいう。牛狗とは自分は前世に牛や狗の世界にあったとして、草を食し、汚物をとって牛狗と同じように生活し、生天を願って苦行することをいうのである。
 これらの種々の苦行を修行して、苦の解消を願って、未来に楽のみの世界を期待したのである。すなわち、このような人々は、人生には苦楽の二面のみがあるとし、その苦の一面をなくしてしまえば、他の楽の一面のみが残ることとなるから、苦痛を自ら継続して受けることによって苦をなくしてしまおうとしたのである。
 ところで、人間が苦を感ずるのは自分の思うままに外の世界が動かないことによる。しかもその根本は自分自らが思うようにならないという点にあるといえるであろう。このような点から、人間の苦の根本である人間の自由を束縛するものは肉体そのものと、肉体的欲望にはかならないといえるであろう。そこで、この肉体的欲望を克服して自由をうるためには、肉体的欲望を克服できるほど強い精神力を養うか、肉体的欲望それ自身を亡ぼすかという二様の道が考えられる。前者の道を実行するものを修定主義者といい、後者の道を歩むものを苦行主義者というのである。
 釈尊当時、インドにはこの二つの流れがあり、修定主義者たちはそのよりどころとして転変説を奉じた。この流れに属する人は、多くバラモンに属する人々であった。ところが、苦行主義者たちは、積集説に立ち、当時一般に沙門といわれた人々であった。釈尊は成道以前、この二つの流れにあって修行をされたといわれている。すなわち、アーラーラーカーラーマ仙、ウッダカーラーマプッタ仙にしたがって修行され、さらに苦行林で苦行を修行されたのである。
 しかし、これらによっては真実の苦の解決はありえないとして、釈尊はやがて独自の方法によって、この目的を達成されたのである。それでは、なぜこれらによって真の苦の解決ができないのであろうか。その原因にはいろいろの考え方ができるであろうが、転変説にしても積集説にしても、これらの基盤となっているものは身心二元論の立場であり、この二元論的立場に問題があるように思われる。
 すなわち、精神と肉体との二元論的立場をとるとするならば、精神をいかに強力なものに鍛練しえたとしても、また肉体的欲望を亡ぼしえたとしても肉体そのものをなくしない限り、苦はなくならないであろう。とすれば真の解脱はこれを死後に期待するよりほかにない。ここに、これらの人々が死後生天を願った理由があるのである。しかも、死後の生天を信じえたのは、かれらが輪廻転生の立場に立っていたからである。
 ところで、釈尊は修定の実行によって精神的には高い境地に到達されたが、それによって生死輪廻の苦を真に克服しうるとは考えられなかった。というのは現実に如何に深い禅定にあるとしても、それを出ればやはり散乱心をまぬがれることはできない。とすれば、死後必ず、それぞれの禅定に応ずる天国に生ずるとの保証は果してありうるのかという疑問にぶっつかられたのであろう。
 そこで、次に、肉体的欲望それ自身を亡ぼす苦行の実行をされた。しかし、そこでも苦行による身体の衰弱は死をもたらすだげで、それの果として楽のみの世界があるとの保証をうることはできなかった。そこで、釈尊はこれらを捨てて独自の方法(止観)によって苦克服の道を発見されたのであり、それを非苦非楽の中道といわれたのである。この意味で仏教では苦行主義による苦行はとらないのである。
 ところが、仏教が中国、日本と伝来するうちに、いつの間にか、苦行主義的な傾向が仏教内でとられるようになり、それが賞讃されるような傾向をもってきた。いわゆる荒行といわれるような寒中に滝にうたれるような行が実行されたり、天台宗が回峯行を実行したりするようなことになった。しかし、仏教が再びとりあげたこのような修行は、いわゆる精進波羅蜜として、人間の懈怠(なまけ心)を克服するためのものであり、その苦行による楽の果を期待するというものでない点は注意すべきである。

恭敬

namas-kāra; gaurava (S)

 敬い、つつしむ。尊敬。仰ぎみる。うやうやしくすること。他に対して敬うこと。敬い尊敬すること。〔倶舎論1〕〔無量寿経 T12-269c〕

Gaurava

 釈尊がおさとりになった直後の時期に、次のようなことをお考えになったことが記録されている。

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、ウルヴェーラー(優留毘羅)村の、ネーランジャラー(尼連禅)河のほとりなる、アジャパーラ・ニグローダ(阿闍波羅尼倶律陀)の樹下に住しておられた。まさに正覚を成じたまいし時のことであった。
 その時、世尊は、ただひとり坐し、静かに物思いして、かように考えたもうた。
「尊敬するところもなく、恭敬するものもない生き方は苦しい。わたしは、いかなる沙門もしくは婆羅門を尊び敬い、近づきて住すればよいであろうか」
 だが、その時また、世尊は、かように考えたもうた。
「もしわたしに、いまだ満たされない戒に関することがあるならば、それを成満するために、他の沙門または婆羅門を尊び敬い、近づきて住するがよいであろう。だが、わたしは、天界・魔界・梵天界をも含めたこの世界において、また、沙門・婆羅門ならびに人間界・天上界の住みぴとをも含めた衆のなかにおいて、わたしよりもよく戒を成就して、尊び敬い、近づきて住するに値するような沙門もしくは婆羅門を見ることはできない。
 また、もしわたしに、いまだ満たされない定に関することがあるならば、……いまだ満たされない慧に関することがあるならば、……いまだ満たされない解脱に関することがあるならば、……いまだ満たされない解脱知見に関することがあるならば、それを成満するために、他の沙門または婆羅門を尊び敬い、近づきて住するがよいであろう。だが、わたしは、天界・魔界・梵天界をも含めたこの世界において、また、沙門・婆羅門ならびに人間界・天上界の住みびとをも含めた衆のなかにおいて、わたしよりもよく解脱知見を成就して、尊び敬い、近づきて住するに値するような沙門もしくは婆羅門を見ることはできない。
 とすると、わたしは、むしろ、わたしが悟った法、この法をこそ、敬い尊び、近づきて住するがよいであろう」
 その時、この娑婆世界の主たる梵天は、その心をもって、世尊の心中の思いを知り、たとえば、力ある男子が屈したる腕を伸し、伸したる腕を屈するがごとく、たちまちにしてその姿を梵天界に没して、世尊のまえに現れた。
 そこで、梵天は、一肩に上衣を掛け、世尊を合掌し、礼拝して、いった。
「世尊よ、そのとおりである。世尊よ、そのとおりである。世尊よ、過去の正等覚者にてましました世尊も、法を尊び敬い、近づきて住した。また、未来の正等覚者にてまします世尊も、法を尊び敬い、近づきて住するであろう。そして、いまの正等覚者にてまします世尊も、法をこそ尊び敬い、近づきて住するがよろしい」
 梵天はそのようにいった。そしてまたつぎのように説いた。
「過去の世の正覚者も
 未来のもろもろの仏たちも
 また、いまの世の悟れる者も
 衆生の憂悩を滅する者は
 すべて正法を敬いて住したもう
 いまも正法を敬いて住したまい
 未来も正法を敬いて住したもうくし
 こは諸仏にとりて法としてしかり
 されば、自己の幸いをねがい
 大いなる状態をのぞむ者は
 よく仏のおしえを憶念して
 正法を敬わざるべからず」    〔Samyutta Nikāya I, 6, 1; 相応部経典,梵天相応 1. 恭敬; 雑阿含経 44, 11, 尊重〕