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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
(摩訶衍)
 
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==摩訶衍==
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=摩訶衍=
まかえん、mahaayaana महायान(sanskrit)。つぶさに書くと「摩訶衍那」となる。
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まかえん、<big>mahāyāna</big> महायान(S)。つぶさに書くと「摩訶衍那」となる。
  
 
訳して「大乗」のことである。
 
訳して「大乗」のことである。
:摩訶衍。具に摩訶衍那と言う。摩訶というのは、これは「大」というなり。衍那というは「乗」と言うなり。  ''慧苑音義'' 上
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:摩訶衍。具に摩訶衍那と言う。摩訶というのは、これは「大」というなり。衍那というは「乗」と言うなり。  〔『慧苑音義』 上〕
  
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 特に『起信論』で説かれている「大乗」の内容は、衆生心の真実のあり方を把握することである。起信論の立義分では魔訶衍が法と義の2種の観点から説かれる。
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:摩訶桁とは、総説するに二種あり。云何んが二となすや。一には法、二には義なり。
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:所言、法とは、謂わく、衆生心なり。是の心は則ち一切の世間の法と出世間の法とを摂す。
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:所言、義とは、則ち三種あり。云何んが三となすや。
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:一には体が大なり、謂わく、一切の法の真如は平等にして増減せざるが故なり。
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:二には相が大なり、謂わく、如来の蔵にして、無量の性功徳を具足するが故なり。
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:三には用が大なり、能く一切の世間と出世間の善の因果を生ずるが故なり。
 
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==摩訶衍==
 
[[779年]]、チベットで、ティソン・デツェン王はインドからシャーンタラクシタを招いてタクマルにサムエー寺を建立し,僧伽を発足させた。<br>
 
[[781年]]、中国からに2人の僧を招いて、仏教を入れさせた。<br>
 
[[786年]]、敦煌陥落の頃、チベットに禅僧'''摩訶衍'''(マハヤーナ)を呼んで布教させた。
 
摩訶衍は無念,無想,無作意による悟得の教義を説いて[[791年]]には皇后を出家させた。<br>
 
  
チベットでは、[[シャーンタラクシタ]]亡きあとのインド仏教系の僧は禅の教義に疑義を示し、文書による論争を重ね、禁教にいたらせた。しかし、禅の信徒の抵抗で[[794年]]禁教が解かれた。<br>
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=摩訶衍=
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779年、チベットで、ティソン・デツェン王はインドからシャーンタラクシタを招いてタクマルにサムエー寺を建立し,僧伽を発足させた。<br>
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781年、中国から2人の僧を招いて、仏教を入れさせた。<br>
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786年、敦煌陥落の頃、チベットに禅僧'''摩訶衍'''(マハヤーナ)を呼んで布教させた。
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摩訶衍は無念,無想,無作意による悟得の教義を説いて791年には皇后を出家させた。<br>
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チベットでは、[[シャーンタラクシタ]]亡きあとのインド仏教系の僧は禅の教義に疑義を示し、文書による論争を重ね、禁教にいたらせた。しかし、禅の信徒の抵抗で794年禁教が解かれた。<br>
 
王はインドから[[カマラシーラ]]を呼び,サムエーのチャンチュプ院でその面前に'''摩訶衍'''を論破させ,妙観察智を捨てた無念の禅を退けたので摩訶衍は[[とんこう|敦煌]]に去り,インド仏教の正統性が認められ,主導権が確立されたと伝えられる。
 
王はインドから[[カマラシーラ]]を呼び,サムエーのチャンチュプ院でその面前に'''摩訶衍'''を論破させ,妙観察智を捨てた無念の禅を退けたので摩訶衍は[[とんこう|敦煌]]に去り,インド仏教の正統性が認められ,主導権が確立されたと伝えられる。

2024年12月5日 (木) 13:52時点における最新版

摩訶衍

まかえん、mahāyāna महायान(S)。つぶさに書くと「摩訶衍那」となる。

訳して「大乗」のことである。

摩訶衍。具に摩訶衍那と言う。摩訶というのは、これは「大」というなり。衍那というは「乗」と言うなり。  〔『慧苑音義』 上〕
 特に『起信論』で説かれている「大乗」の内容は、衆生心の真実のあり方を把握することである。起信論の立義分では魔訶衍が法と義の2種の観点から説かれる。
摩訶桁とは、総説するに二種あり。云何んが二となすや。一には法、二には義なり。
所言、法とは、謂わく、衆生心なり。是の心は則ち一切の世間の法と出世間の法とを摂す。
所言、義とは、則ち三種あり。云何んが三となすや。
一には体が大なり、謂わく、一切の法の真如は平等にして増減せざるが故なり。
二には相が大なり、謂わく、如来の蔵にして、無量の性功徳を具足するが故なり。
三には用が大なり、能く一切の世間と出世間の善の因果を生ずるが故なり。

摩訶衍

779年、チベットで、ティソン・デツェン王はインドからシャーンタラクシタを招いてタクマルにサムエー寺を建立し,僧伽を発足させた。
781年、中国から2人の僧を招いて、仏教を入れさせた。
786年、敦煌陥落の頃、チベットに禅僧摩訶衍(マハヤーナ)を呼んで布教させた。 摩訶衍は無念,無想,無作意による悟得の教義を説いて791年には皇后を出家させた。

チベットでは、シャーンタラクシタ亡きあとのインド仏教系の僧は禅の教義に疑義を示し、文書による論争を重ね、禁教にいたらせた。しかし、禅の信徒の抵抗で794年禁教が解かれた。
王はインドからカマラシーラを呼び,サムエーのチャンチュプ院でその面前に摩訶衍を論破させ,妙観察智を捨てた無念の禅を退けたので摩訶衍は敦煌に去り,インド仏教の正統性が認められ,主導権が確立されたと伝えられる。