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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(法然)
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13歳で[[ひえいざん|比叡山]]に登り、15歳のとき皇円(こうえん)について出家する。<br>
 
13歳で[[ひえいざん|比叡山]]に登り、15歳のとき皇円(こうえん)について出家する。<br>
 
1150年(久安6)18歳のとき、西塔の[[くろだに|黒谷]]に隠棲していた慈眼房(じげんぼう)叡空(えいくう)の弟子となり、「法然坊(ほうねんぼう)源空(げんくう)」と改名する。約25年間、叡空につき、その間、京都を中心に、奈良まで学僧たちを歴訪するなどして、研鑽をつんだ。<br>
 
1150年(久安6)18歳のとき、西塔の[[くろだに|黒谷]]に隠棲していた慈眼房(じげんぼう)叡空(えいくう)の弟子となり、「法然坊(ほうねんぼう)源空(げんくう)」と改名する。約25年間、叡空につき、その間、京都を中心に、奈良まで学僧たちを歴訪するなどして、研鑽をつんだ。<br>
1175年(承安5)42歳のとき、黒谷の経蔵で[[ぜんどう|善導]]著『[[かんむりょうじゅきょうしょ|観無量寿経疏]]』散善義の「一心専念弥陀名号」の文によって[[せんじゅねんぶつ|専修念仏]]に帰した。まもなく叡山を下り、東山[[よしみず|吉水]](大谷)においてあらゆる階層の人々に浄土念仏の教えを説きはじめ、感化を受けた人々が激増した。
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1175年(承安5)42歳のとき、黒谷の経蔵で[[ぜんどう|善導]]著『[[かんぎょうしょ|観無量寿経疏]]』散善義の「一心専念弥陀名号」の文によって[[せんじゅねんぶつ|専修念仏]]に帰した。まもなく叡山を下り、東山[[よしみず|吉水]](大谷)においてあらゆる階層の人々に浄土念仏の教えを説きはじめ、感化を受けた人々が激増した。
 
1186年(文治2)には大原で浄土念仏に関する法論をなし、聞く者を感服させた(大原問答)。<br>
 
1186年(文治2)には大原で浄土念仏に関する法論をなし、聞く者を感服させた(大原問答)。<br>
 
1198年(建久9)、九条兼実(くじょうかねざね)に請われて『[[せんじゃくほんがんねんぶつしゅう|選択本願念仏集]]』を著し、一宗を立てた。<br>
 
1198年(建久9)、九条兼実(くじょうかねざね)に請われて『[[せんじゃくほんがんねんぶつしゅう|選択本願念仏集]]』を著し、一宗を立てた。<br>

2009年3月24日 (火) 07:21時点における版

法然

ほうねん、1133年(長承2)-1212年(建暦2)

浄土宗の開祖。鎌倉時代に多く輩出した新しい日本仏教の宗派の祖師の一人。

法然は美作(みまさか、現在の岡山県)に生まれた。押領使(おうりょうし)漆間(うるま)時国の子で、幼名を勢至丸といった。
9歳のとき父は夜討にあったが、遺言によって仇討を断念する。
13歳で比叡山に登り、15歳のとき皇円(こうえん)について出家する。
1150年(久安6)18歳のとき、西塔の黒谷に隠棲していた慈眼房(じげんぼう)叡空(えいくう)の弟子となり、「法然坊(ほうねんぼう)源空(げんくう)」と改名する。約25年間、叡空につき、その間、京都を中心に、奈良まで学僧たちを歴訪するなどして、研鑽をつんだ。
1175年(承安5)42歳のとき、黒谷の経蔵で善導著『観無量寿経疏』散善義の「一心専念弥陀名号」の文によって専修念仏に帰した。まもなく叡山を下り、東山吉水(大谷)においてあらゆる階層の人々に浄土念仏の教えを説きはじめ、感化を受けた人々が激増した。 1186年(文治2)には大原で浄土念仏に関する法論をなし、聞く者を感服させた(大原問答)。
1198年(建久9)、九条兼実(くじょうかねざね)に請われて『選択本願念仏集』を著し、一宗を立てた。
1204年(元久1)、比叡山の僧徒が蜂起して座主に専修念仏の停止を訴えたため、『七箇条制誡(しちかじょうせいかい)』を草し、門弟190名の連署をそえて延暦寺へ送った。
1205年には南都の興福寺から、専修念仏の九失を挙げた奏状(『興福寺奏状』)が朝廷に出された。 1207年(建永2)2月、弟子の住蓮・安楽が女官を出家させ、死罪となった事件を契機として、75歳の法然は土佐(高知県。実際には讃岐(香川県))に流罪となる。このとき、親鸞などの弟子7人も各地に流された(建永の法難)。
1208年(承元1)12月、許されて法然は摂津(大阪府)の勝尾寺に滞在。
1211年(建暦1)東山大谷に帰る。
1212年1月23日、弟子の源智に『一枚起請文』を与え、2日後に80歳で示寂。
東山天皇から円光大師の号を贈られる。のち五度にわたり勅諡号を受ける。別に黒谷上人とも呼ばれた。没後も法然の墓堂が破壊される(嘉禄の法難)など迫害が続いたが、信空・隆寛・聖光・幸西・親鸞・湛空・証空・長西・源智などの弟子によって、それぞれに門流が形成された。

他にも『黒谷上人語灯録』などの著作が、法然の思想をよく伝えている。