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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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[[779年]]、チベットで、ティソン・デツェン王はインドからシャーンタラクシタを招いてタクマルにサムエー寺を建立し,僧伽を発足させた。<br>
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779年、チベットで、ティソン・デツェン王はインドからシャーンタラクシタを招いてタクマルにサムエー寺を建立し,僧伽を発足させた。<br>
[[781年]]、中国からに2人の僧を招いて、仏教を入れさせた。<br>
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781年、中国からに2人の僧を招いて、仏教を入れさせた。<br>
[[786年]]、敦煌陥落の頃、チベットに禅僧'''摩訶衍'''(マハヤーナ)を呼んで布教させた。
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786年、敦煌陥落の頃、チベットに禅僧'''摩訶衍'''(マハヤーナ)を呼んで布教させた。
摩訶衍は無念,無想,無作意による悟得の教義を説いて[[791年]]には皇后を出家させた。<br>
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摩訶衍は無念,無想,無作意による悟得の教義を説いて791年には皇后を出家させた。<br>
  
 
チベットでは、[[シャーンタラクシタ]]亡きあとのインド仏教系の僧は禅の教義に疑義を示し、文書による論争を重ね、禁教にいたらせた。しかし、禅の信徒の抵抗で[[794年]]禁教が解かれた。<br>
 
チベットでは、[[シャーンタラクシタ]]亡きあとのインド仏教系の僧は禅の教義に疑義を示し、文書による論争を重ね、禁教にいたらせた。しかし、禅の信徒の抵抗で[[794年]]禁教が解かれた。<br>
 
王はインドから[[カマラシーラ]]を呼び,サムエーのチャンチュプ院でその面前に'''摩訶衍'''を論破させ,妙観察智を捨てた無念の禅を退けたので摩訶衍は[[とんこう|敦煌]]に去り,インド仏教の正統性が認められ,主導権が確立されたと伝えられる。
 
王はインドから[[カマラシーラ]]を呼び,サムエーのチャンチュプ院でその面前に'''摩訶衍'''を論破させ,妙観察智を捨てた無念の禅を退けたので摩訶衍は[[とんこう|敦煌]]に去り,インド仏教の正統性が認められ,主導権が確立されたと伝えられる。

2016年10月21日 (金) 00:15時点における版

摩訶衍

まかえん、mahaayaana महायान(sanskrit)。つぶさに書くと「摩訶衍那」となる。

訳して「大乗」のことである。

摩訶衍。具に摩訶衍那と言う。摩訶というのは、これは「大」というなり。衍那というは「乗」と言うなり。  慧苑音義

摩訶衍

779年、チベットで、ティソン・デツェン王はインドからシャーンタラクシタを招いてタクマルにサムエー寺を建立し,僧伽を発足させた。
781年、中国からに2人の僧を招いて、仏教を入れさせた。
786年、敦煌陥落の頃、チベットに禅僧摩訶衍(マハヤーナ)を呼んで布教させた。 摩訶衍は無念,無想,無作意による悟得の教義を説いて791年には皇后を出家させた。

チベットでは、シャーンタラクシタ亡きあとのインド仏教系の僧は禅の教義に疑義を示し、文書による論争を重ね、禁教にいたらせた。しかし、禅の信徒の抵抗で794年禁教が解かれた。
王はインドからカマラシーラを呼び,サムエーのチャンチュプ院でその面前に摩訶衍を論破させ,妙観察智を捨てた無念の禅を退けたので摩訶衍は敦煌に去り,インド仏教の正統性が認められ,主導権が確立されたと伝えられる。