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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
(唐大和上東征伝)
 
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真人元開(俗名淡海三船(おうみのみふね)、722-785)撰。1巻。779年(宝亀10)成立。
 
真人元開(俗名淡海三船(おうみのみふね)、722-785)撰。1巻。779年(宝亀10)成立。
  
唐の僧 [[がんじん|鑑真]]の伝記。『東征伝」とも略称する。<br>
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 唐の僧 [[がんじん|鑑真]]の伝記。『東征伝』とも略称する。<br>
鑑真の弟子思託(したく)が入朝後、伝戒師としての鑑真に対する僧たちの反感や誤解を解くために書いた『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝」(『広伝』ともいう)3巻本を、思託の要請で、当時文人の首と称された淡海三船が麗筆をもって1巻本に整理したもので、3巻本(現存しない)の文章を取捨整理し、駢儷(べんれい)体を主軸にした文章に仕立てたもの。
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 鑑真の弟子思託(したく)が入朝後、伝戒師としての鑑真に対する僧たちの反感や誤解を解くために書いた『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝」(『広伝』ともいう)3巻本を、思託の要請で、当時文人の首と称された淡海三船が麗筆をもって1巻本に整理したもので、3巻本(現存しない)の文章を取捨整理し、駢儷(べんれい)体を主軸にした文章に仕立てたもの。
  
 
===内容===
 
===内容===
  
鑑真が、日本に戒師を招く目的で入唐した[[ようえい|栄叡]]・[[ふしょう|普照]]の意を汲んで、授戒伝律のために渡海を決意した経緯と、743年(唐の天宝2.日本の天平15)の第1回渡海計画以後12年にわたる6度の渡海の辛苦をつまびらかにして、伝法に対する熱意のほどを語ることを主眼とする。
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 鑑真が、日本に戒師を招く目的で入唐した[[ようえい|栄叡]]・[[ふしょう|普照]]の意を汲んで、授戒伝律のために渡海を決意した経緯と、743年(唐の天宝2.日本の天平15)の第1回渡海計画以後12年にわたる6度の渡海の辛苦をつまびらかにして、伝法に対する熱意のほどを語ることを主眼とする。
  
前文には鑑真の出自や戒律の化主(けしゆ)と仰がれていたことを伝え、754年(天平勝宝6)入朝後については[[とうだいじ|東大寺]]戒壇院の創設、[[とうしょうだいじ|唐招提寺]]創設と講律等に触れ、入滅の模様を語って遺徳を鑽仰(さんごう)している。
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 前文には鑑真の出自や戒律の化主(けしゆ)と仰がれていたことを伝え、754年(天平勝宝6)入朝後については[[とうだいじ|東大寺]]戒壇院の創設、[[とうしょうだいじ|唐招提寺]]創設と講律等に触れ、入滅の模様を語って遺徳を鑽仰(さんごう)している。
  
また巻尾には元開の詩序を付した漢詩2首、その他数首を加えて鑑真の追悼とする。
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 また巻尾には元開の詩序を付した漢詩2首、その他数首を加えて鑑真の追悼とする。
  
1298年(永仁6)、本書の本文をもとに『東征絵伝』5巻が作られているが、絵は六郎兵衛入道運行の筆。
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 1298年(永仁6)、本書の本文をもとに『東征絵伝』5巻が作られているが、絵は六郎兵衛入道運行の筆。

2017年8月14日 (月) 17:30時点における最新版

唐大和上東征伝

真人元開(俗名淡海三船(おうみのみふね)、722-785)撰。1巻。779年(宝亀10)成立。

 唐の僧 鑑真の伝記。『東征伝』とも略称する。
 鑑真の弟子思託(したく)が入朝後、伝戒師としての鑑真に対する僧たちの反感や誤解を解くために書いた『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝」(『広伝』ともいう)3巻本を、思託の要請で、当時文人の首と称された淡海三船が麗筆をもって1巻本に整理したもので、3巻本(現存しない)の文章を取捨整理し、駢儷(べんれい)体を主軸にした文章に仕立てたもの。

内容

 鑑真が、日本に戒師を招く目的で入唐した栄叡普照の意を汲んで、授戒伝律のために渡海を決意した経緯と、743年(唐の天宝2.日本の天平15)の第1回渡海計画以後12年にわたる6度の渡海の辛苦をつまびらかにして、伝法に対する熱意のほどを語ることを主眼とする。

 前文には鑑真の出自や戒律の化主(けしゆ)と仰がれていたことを伝え、754年(天平勝宝6)入朝後については東大寺戒壇院の創設、唐招提寺創設と講律等に触れ、入滅の模様を語って遺徳を鑽仰(さんごう)している。

 また巻尾には元開の詩序を付した漢詩2首、その他数首を加えて鑑真の追悼とする。

 1298年(永仁6)、本書の本文をもとに『東征絵伝』5巻が作られているが、絵は六郎兵衛入道運行の筆。