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+ | 安養浄土の阿弥陀佛の場合、同居土の浄土に住する佛陀である。極楽には、[[しゃば|娑婆]]の凡夫が往生することができるから、極楽には凡夫がいる。しかし凡夫に対する佛は劣応身である。さらに極楽には声聞衆がいると経典に説かれているが、声聞に対する佛は劣応身である。しかも未離欲の声聞や凡夫は、まだ見思の惑を全断していないから、輪廻の束縛を離れていない。<br> | ||
+ | したがって、彼らの住する極楽は、輪廻の内の浄土であることになる。すなわち界内の浄土である。これは凡聖同居の浄土である。 | ||
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+ | これに対して浄土教では、阿弥陀佛を[[おうじん|応身]]とは見ない。浄土に生まれた衆生は直ちに成佛すると見るから、浄土は聖者の住所である。極楽を界内の佛土とは見ない。阿弥陀佛は、法蔵菩薩の時の因位の修行に報われて成佛した無量の寿命、無量の光明を持つ佛であるから、[[ほうじん|報身]]であると見る。これらの点は、[[ぜんどう|善導]]の『[[かんぎょうしょ|観経疏]]』に主張される。 |
2011年2月2日 (水) 02:35時点における最新版
安養
阿弥陀の浄土に往生すれば、心を安んじ身を養うから、安養と言い、その浄土を「安養浄土」と言う。極楽の異訳である。
- 九品安養の同じ台(うてな)生るる身となさせ給へ 太平記6
天台宗の説
安養浄土の阿弥陀佛の場合、同居土の浄土に住する佛陀である。極楽には、娑婆の凡夫が往生することができるから、極楽には凡夫がいる。しかし凡夫に対する佛は劣応身である。さらに極楽には声聞衆がいると経典に説かれているが、声聞に対する佛は劣応身である。しかも未離欲の声聞や凡夫は、まだ見思の惑を全断していないから、輪廻の束縛を離れていない。
したがって、彼らの住する極楽は、輪廻の内の浄土であることになる。すなわち界内の浄土である。これは凡聖同居の浄土である。
これに対して浄土教では、阿弥陀佛を応身とは見ない。浄土に生まれた衆生は直ちに成佛すると見るから、浄土は聖者の住所である。極楽を界内の佛土とは見ない。阿弥陀佛は、法蔵菩薩の時の因位の修行に報われて成佛した無量の寿命、無量の光明を持つ佛であるから、報身であると見る。これらの点は、善導の『観経疏』に主張される。