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 「死ぬ」√mṛ という語根から、「死」mṛtyu, maccu とか、「魔」māra(殺す者)という語ができている。
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=== maccurāja ===
 
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 「死の王」という意味。
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:1119. "Suññato lokaṃ avekkhassu Mogharāja sadā sato attānudiṭṭhiṃ ūhacca, evaṃ maccutaro siyā:
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:      evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ maccurājā na passatī" ti.
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: 「モーガラージャよ。つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。
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:そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」〔スッタニパータ〕
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=== suvarga (S) ===
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 死者の国
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 ごく初期のVedaの宗教では、死ぬと'''死者の国'''で永遠に生きられると考えられていた。<br>
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 この極端な快楽主義は、永遠の快楽が失われることへの恐怖を生じさせる。そのために、なすべきこと(法)を正しく行うことで「再死」を免れる、との法則が考え出された。これが「[[いんがおうほう|因果応報]]」の考え方であり、天界と地獄という世界観を生み出したのである。<br>
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 そして、「善因楽果・悪因苦果」「[[じごうじとく|自業自得]]」という論理法則が完成されたのである。その大本は、「再死」への恐怖であったことを知らなくてはならない。これがのちに[[りんね|輪廻]]思想となる。
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 B.C.8c [[ばらもんきょう|バラモン教]]は、この先住民族の輪廻思想を受け入れることとなる。
  
 
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2024年8月5日 (月) 11:21時点における最新版

 しかばね。「彼れ命終りて未だ久しからずして暴風が其の尸を瓢挙して遠く他処に棄す」

vetāḍa

 死体に悪鬼をとり綴かせること。詳しくは起屍ともいう。
「塊・杖・刀・縛録・断食・折挫・治罰・呪薬・厭祷・尸・半尸などをもって諸の衆生を害するを皆な殺生と名づく」

ańga (S)
 部分。要素。第二次的な部分。たとえば、象と馬と車と歩兵との4つの要素から構成されるものを四支軍と呼ぶ。
「別を以って総を成じて支の名を得る。車の衆分、四支の軍の如し」「縁起の支に十二あり」

nara-kṝ

 拒否する、拒絶すること。「菩薩は若し求請あれば希求するところを止することなし」

śamatha (S)

 息を対象として心を静める阿那阿波那念における6つの方法(数.随・止・観・転・浄)の1つ。心を身体の鼻の端、あるいは眉間などの、ある一か所に心を集中させて、心を静かに安定させる方法。

 止、謂、繋念、唯在鼻端、或在眉間乃至足指。随所楽処、安止其心。観息住身、如珠中縷為冷、為煖、為損、為益。  〔『倶舎』22、T29-118b〕

ataḥ: anantaram: ūrdhva: krama: tataḥ (S)

 つぎ。あと。

cyavana: cyu: cyuti: maraṇa: mṛta

 いのちのあるものが死ぬこと。いのちを支えている力(命根)が滅すること。

 最後命根滅、名死亦無常。〔『婆沙』38、T27-199b〕
 云何死。謂、由寿量極故、而便致死。〔『瑜伽論』1、T30-281b〕
 死者、其識棄捨心胸処故。〔『瑜伽論』84、T30-769b〕
 由命根変異不平等故、仮立死。〔『瑜伽論』54、T30-597a〕
 身壊命終、乃名為死。〔『成論』8,T31-43c〕

 種類としては、

  •  寿尽故死・福尽故死・不避不平等故死〔『瑜伽論』1、T30-281b〕
  •  善心死・不善心死・無記心死〔『瑜伽論』1,T30-281b~c〕の3種
  •  調善死・不調善死・過去死・現在死・未来死(『瑜伽論』18、T30-379b〕の5種
  •  過去死・現在死・不調伏死・調伏死・同分死・不同分死〔『瑜伽論』85、T30-776c〕の6種

が説かれる。

  •  「死ぬ」√mṛ という語根から、「死」mṛtyu, maccu とか、「魔」māra(殺す者)という語ができている。

marana

 死ぬという感触。触覚(身識)の対象である感触()の一つ。〔『瑜伽師地論』1、T30-280a〕

maccurāja

 「死の王」という意味。

1119. "Suññato lokaṃ avekkhassu Mogharāja sadā sato attānudiṭṭhiṃ ūhacca, evaṃ maccutaro siyā:
evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ maccurājā na passatī" ti.
 「モーガラージャよ。つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」〔スッタニパータ〕

suvarga (S)

 死者の国

 ごく初期のVedaの宗教では、死ぬと死者の国で永遠に生きられると考えられていた。
 この極端な快楽主義は、永遠の快楽が失われることへの恐怖を生じさせる。そのために、なすべきこと(法)を正しく行うことで「再死」を免れる、との法則が考え出された。これが「因果応報」の考え方であり、天界と地獄という世界観を生み出したのである。
 そして、「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」という論理法則が完成されたのである。その大本は、「再死」への恐怖であったことを知らなくてはならない。これがのちに輪廻思想となる。

 B.C.8c バラモン教は、この先住民族の輪廻思想を受け入れることとなる。

gam: anupra-āp: sam-bhū

anupra-āp: anuprāpta: abhigamana: ā-gam: upagata: gata: gam: gamana: pra-āp: prati-ī: pratipanna: prāpta: prāpti: samā-gam: saṃprāpta: sam-bhū (S)

 いたること。ある場所.ある時、あるいはある心境・境界に到達すること。行くこと。得ること。獲得すること。
「永く衆の苦楽を超えて、苦楽を超えた処に至る」「諸法は世に行ずる時、未来より現在に至り、現在より過去に入る」

ā-: yāvat

 「~まで」を意味する語。 「諸の善業中、始めは欲界より第三静盧に至るまでのものを順楽受業と名づく」

 「この上はない」「最高の」「立派な」を意味する形容句。「至誠」

cetanā (S)

 心の動機づけの作用。心がある方面に動機づけられること。志向。意志の発動。思うという精神上の動作。インド一般では、意志作用をも含める。心を動かすはたらき。小乗アピダルマでは十大地法の心所の一つ。

  • 心の造作   citta-abhisaṃskāra
  • 意のはたらき manasaś ceṣṭā

 志向、思考、五遍行の心所の一つ。身・語・意の三業をつくる心作用であり、業の体。

 思の心所とは心を善にも悪にも無記にも作りなす心也。    〔唯識大意〕

vicāra (S)

 観察的な微細な心のはたらき。細かに事物を考察させる心のはたらき。考察。
 此縁性によってて確定された事実関係を実践上の課題としてしっかりと位置づけること。

 小乗アビダルマでは心作用(心所)のうちの8つの不定法の一つ。の対。  〔倶舎論4〕

 唯識説では四不定法の一つ。〔唯識三十頌 T31-60c〕

 物を言んとて万の事を推し量る心也、取て深く分別する時をぱ伺と名る也。    〔唯識大意〕

saṃkappa

 思惟に同じ。決意。こうと決まった考え。〔雑阿含経28 T2-203a〕〔往生要集 T84-46b〕
「無上志」(さとりを求める心。)〔大智度論4 T25-88b〕

citta

 記憶の主体としての度心。〔那先比丘経 T32-701a〕

 事実を記載したもの。〔仏祖統紀25 T49-132c〕

使

dāsa: dāsī: pauruṣeya

 召使い。雇い人。僕使という場合が多い。原語dāsīは女の召使い、dāsaは男の召使い。

anuśiṣṭa: dūta

 使者。使節。 「諸の王は使を遣わす」「淡魔王の使である諸の羅刹娑が、諸の有情を擲ちて地獄に置く者を淡魔卒と名づく」

使役

 「~せしめる」という使役形として用いられる語。

uccāra: purīṣa (S)
 大便。くそ。


kuṇapa (S)
 しかばね。死体。「屍の糞塑の内に多く諸虫あり」