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(吉蔵)
 
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549-623
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梁の太清3(549)-唐の武徳6(623)
  
 中国の六朝末から隋・唐初にかけて、[[さんろん|三論]]([[りゅうじゅ|龍樹]]の[[ちゅうろん|中論]]・[[じゅうにもんろん|十二門論]]と[[だいば|提婆]]の[[ひゃくろん|百論]])の教学を大成した学僧。
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 中国の六朝末から隋・唐初にかけて、[[さんろん|三論]]([[りゅうじゅ|龍樹]]の[[ちゅうろん|中論]]・[[じゅうにもんろん|十二門論]]と[[だいば|提婆]]の[[ひゃくろん|百論]])の教学を大成した学僧。<br>
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 会稽(かいけい)(浙江省紹興県)の嘉祥寺(かじょうじ)に住したので「[[かじょうだいし|嘉祥大師]]」とも称せられる。<br>
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 [[はんにゃぎょう|般若経]]・[[さんろん|三論]]だけでなく[[ほけきょう|法華経]]・[[けごんきょう|華厳経]]などの諸大乗経を講じ、注釈書を著して、現在26部が現存する。
  
会稽(かいけい)(浙江省紹興県)の嘉祥寺(かじょうじ)に住したので「嘉祥大師」とも称せられる。
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 俗姓は安といい、祖先は[[あんそくこく|安息国]](パルティア)の人であることから「胡()吉蔵」ともいわれる。金陵(きんりよう)(南京)で生まれ、興皇寺法朗(ほうろう)(507-581)に師事し、7歳(or 11歳)で出家し、21歳で[[ぐそくかい|具足戒]]を受け秀才の誉れが高かった。
  
[[はんにゃぎょう|般若経]]・三論のみならず[[ほけきょう|法華経]]・[[けごんきょう|華厳経]]などの諸大乗経を講じ、注釈書を著して、現在26部が現存する。
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 隋が中国を統一した589年以後7-8年間、嘉祥寺に止泊して教えをひろめ、道を問うもの千余人にのぼった。その後、晋王広(しんおうこう)(後の煬帝(ようだい)に召されて揚州(ようしゆう)の慧日道場(えにちどうじよう)に入り[[さんろんげんぎ|三論玄義]]などを著した。<br>
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 約2年後、晋王広により長安の日厳寺に召され、講説するや万をもって数えるほどの聴衆が集まり、屋外にあふれ、討論会で吉蔵に対抗できる者はなかった。<br>
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 唐の武徳(618-626)の初め、十大徳の1人に選ばれた。<br>
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 命終に臨み『死不怖論』を製して75歳の生涯を閉じた。
  
俗姓は安といい、祖先は[[あんそくこく|安息国]](パルティア)の人であることから「胡(こ)吉蔵」ともいわれる。金陵(きんりよう)(南京)で生まれ、興皇寺法朗(ほうろう)(507-581)に師事し、7歳(or 11歳)で出家し、21歳で[[ぐそくかい|具足戒]]を受け秀才の誉れが高かった。
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 弟子の高句麗僧 慧灌(えかん)は625年(推古33)日本に初めて三論を伝え、[[がんごうじ|元興寺]]に住した。
  
隋が中国を統一した589年以後7-8年間、嘉祥寺に止泊して教えをひろめ、道を問うもの千余人にのぼった。その後、晋王広(しんおうこう)(後の煬帝(ようだい)に召されて揚州(ようしゆう)の慧日道場(えにちどうじよう)に入り[[さんろんげんぎ|三論玄義]]などを著した。<br>
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===著書===
約2年後、晋王広により長安の日厳寺に召され、講説するや万をもって数えるほどの聴衆が集まり、屋外にあふれ、討論会で吉蔵に対抗できる者はなかった。<br>
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旧説を引くことが多く、江南仏教の研究には貴重な資料を提供する。
唐の武徳(618-626)の初め、十大徳の1人に選ばれた。<br>
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命終に臨み『死不怖論』を製して75歳の生涯を閉じた。弟子の高句麗僧 慧灌(えかん)は625年(推古33)日本に初めて三論を伝え、[[がんごうじ|元興寺]]に住した。
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*三論玄義 一巻
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*中論疏 20巻
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*百論疏 9巻
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*十二門論疏 6巻
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*大乗玄論 5巻
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*法華玄論 10巻
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*法華義疏 12巻
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*法華論疏 3巻
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*勝鬘宝窟 6巻
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*浄名玄論 8巻
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*大品経義疏 10巻
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など
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参考図書:
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[http://www.bk1.co.jp/product/2238600/p-daigo07025 仏性思想の展開]

2014年3月1日 (土) 15:48時点における最新版

吉蔵

梁の太清3(549)-唐の武徳6(623)

 中国の六朝末から隋・唐初にかけて、三論(龍樹中論十二門論提婆百論)の教学を大成した学僧。
 会稽(かいけい)(浙江省紹興県)の嘉祥寺(かじょうじ)に住したので「嘉祥大師」とも称せられる。
 般若経三論だけでなく法華経華厳経などの諸大乗経を講じ、注釈書を著して、現在26部が現存する。

 俗姓は安といい、祖先は安息国(パルティア)の人であることから「胡(こ)吉蔵」ともいわれる。金陵(きんりよう)(南京)で生まれ、興皇寺法朗(ほうろう)(507-581)に師事し、7歳(or 11歳)で出家し、21歳で具足戒を受け秀才の誉れが高かった。

 隋が中国を統一した589年以後7-8年間、嘉祥寺に止泊して教えをひろめ、道を問うもの千余人にのぼった。その後、晋王広(しんおうこう)(後の煬帝(ようだい)に召されて揚州(ようしゆう)の慧日道場(えにちどうじよう)に入り三論玄義などを著した。
 約2年後、晋王広により長安の日厳寺に召され、講説するや万をもって数えるほどの聴衆が集まり、屋外にあふれ、討論会で吉蔵に対抗できる者はなかった。
 唐の武徳(618-626)の初め、十大徳の1人に選ばれた。
 命終に臨み『死不怖論』を製して75歳の生涯を閉じた。

 弟子の高句麗僧 慧灌(えかん)は625年(推古33)日本に初めて三論を伝え、元興寺に住した。

著書

旧説を引くことが多く、江南仏教の研究には貴重な資料を提供する。

  • 三論玄義 一巻
  • 中論疏 20巻
  • 百論疏 9巻
  • 十二門論疏 6巻
  • 大乗玄論 5巻
  • 法華玄論 10巻
  • 法華義疏 12巻
  • 法華論疏 3巻
  • 勝鬘宝窟 6巻
  • 浄名玄論 8巻
  • 大品経義疏 10巻

など

参考図書: 仏性思想の展開