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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(仏駄跋陀羅)
 
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=仏駄跋陀羅=
 
=仏駄跋陀羅=
buddhabhadra (skt.)、359年―429年<br>
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<big>Buddhabhadra</big> (S)、359年 - 429年<br>
 
 北インド出身の仏教僧である。仏度跋陀羅(ぶっどばっだら)、仏大跋駄(ぶっだいばっだ)などと音写され、意訳して[[かくけん|覚賢]]、[[ぶっけん|仏賢]]などと呼ばれていた。
 
 北インド出身の仏教僧である。仏度跋陀羅(ぶっどばっだら)、仏大跋駄(ぶっだいばっだ)などと音写され、意訳して[[かくけん|覚賢]]、[[ぶっけん|仏賢]]などと呼ばれていた。
  
 
 出家後、広く[[きょう|経]]を学び、[[かいりつ|戒律]]も厳格に守り、[[ぜんじょう|禅定]]にも熱心でだったと伝わる。のち[[けいひん|罽賓]](カシミール)に遊学して、仏大先(ぶっだいせん)に禅法を受けた。<br>
 
 出家後、広く[[きょう|経]]を学び、[[かいりつ|戒律]]も厳格に守り、[[ぜんじょう|禅定]]にも熱心でだったと伝わる。のち[[けいひん|罽賓]](カシミール)に遊学して、仏大先(ぶっだいせん)に禅法を受けた。<br>
 
 そこで、中国からきていた[[ちごん|智厳]]の要請により南方海路を経て中国へ渡った。406年(弘始8年)[[ちょうあん|長安]]に行き、長安にいた[[くまらじゅう|鳩摩羅什]]と親交を結び、ともに[[ほっそう|法相]]を論じたが、性格があわず誤解された。<br>
 
 そこで、中国からきていた[[ちごん|智厳]]の要請により南方海路を経て中国へ渡った。406年(弘始8年)[[ちょうあん|長安]]に行き、長安にいた[[くまらじゅう|鳩摩羅什]]と親交を結び、ともに[[ほっそう|法相]]を論じたが、性格があわず誤解された。<br>
 次いで南方の[[ろざん|廬山]]へ行き、[[えおん|慧遠]]に敬重され、『達磨多羅禅経(だるまたらぜんきょう)』を漢訳して座禅の普及に努めた。
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 次いで南方の[[ろさん|廬山]]へ行き、[[えおん|慧遠]]に敬重され、『達磨多羅禅経(だるまたらぜんきょう)』を漢訳して座禅の普及に努めた。
  
 
 廬山十八賢の一に数えられ、仏陀禅師(ぶっだぜんじ)、天竺(てんじく)禅師ともよばれた。
 
 廬山十八賢の一に数えられ、仏陀禅師(ぶっだぜんじ)、天竺(てんじく)禅師ともよばれた。

2017年4月29日 (土) 21:24時点における最新版

仏駄跋陀羅

Buddhabhadra (S)、359年 - 429年
 北インド出身の仏教僧である。仏度跋陀羅(ぶっどばっだら)、仏大跋駄(ぶっだいばっだ)などと音写され、意訳して覚賢仏賢などと呼ばれていた。

 出家後、広くを学び、戒律も厳格に守り、禅定にも熱心でだったと伝わる。のち罽賓(カシミール)に遊学して、仏大先(ぶっだいせん)に禅法を受けた。
 そこで、中国からきていた智厳の要請により南方海路を経て中国へ渡った。406年(弘始8年)長安に行き、長安にいた鳩摩羅什と親交を結び、ともに法相を論じたが、性格があわず誤解された。
 次いで南方の廬山へ行き、慧遠に敬重され、『達磨多羅禅経(だるまたらぜんきょう)』を漢訳して座禅の普及に努めた。

 廬山十八賢の一に数えられ、仏陀禅師(ぶっだぜんじ)、天竺(てんじく)禅師ともよばれた。

翻訳

  • 『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』
  • 『華厳経(けごんきょう)』
  • 『観仏三昧海経(かんぶつざんまいかいきょう)』

など13部125巻を翻訳した。