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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 「観」とは、[[サンスクリット]]語の「vipaazyanaa」の訳であり、[[しかん|止観]]などとあわせて呼ばれる、修行方法の一つである。<br>
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 「観」とは、[[サンスクリット]]語の「<big>vipāśyanā</big>」の訳であり、[[しかん|止観]]などとあわせて呼ばれる、修行方法の一つである。<br>
 
 心を集中し特定の対象に向けて思念して悟りに至る方法一般をいう。「観」「観心」「観想」「観念」などの総称である。
 
 心を集中し特定の対象に向けて思念して悟りに至る方法一般をいう。「観」「観心」「観想」「観念」などの総称である。
  
 観法はその対象によって、日想観・月輪観(がちりんかん)、九想観や、仏・浄土の具体的様相を想起する初歩的な観想から、現象の背後にある空(くう)・無我などの哲理や真理そのものを観ずる高度なものまで、多種多様のものがある。天台宗では、一念三千の相を観ずるなど、心的な自己体験を重視するところから、観心(かんじん)ともいう。
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 観法はその対象によって、日想観・月輪観(がちりんかん)、九想観や、[[ぶつ|仏]]・[[じょうど|浄土]]の具体的様相を想起する初歩的な観想から、現象の背後にある[[くう|空]]・[[むが|無我]]などの哲理や真理そのものを観ずる高度なものまで、多種多様のものがある。天台宗では、一念三千の相を観ずるなど、心的な自己体験を重視するところから、[[かんじん|観心]]ともいう。

2017年5月9日 (火) 05:09時点における最新版

観法

 「観」とは、サンスクリット語の「vipāśyanā」の訳であり、止観などとあわせて呼ばれる、修行方法の一つである。
 心を集中し特定の対象に向けて思念して悟りに至る方法一般をいう。「観」「観心」「観想」「観念」などの総称である。

 観法はその対象によって、日想観・月輪観(がちりんかん)、九想観や、浄土の具体的様相を想起する初歩的な観想から、現象の背後にある無我などの哲理や真理そのものを観ずる高度なものまで、多種多様のものがある。天台宗では、一念三千の相を観ずるなど、心的な自己体験を重視するところから、観心ともいう。