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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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<big>daśabhāṇavāra-vinaya</big> दशभाणवार विनय(S)
  
 『十誦律』六十一巻は、[[くまらじゅう|鳩摩羅什]]三蔵が北インド出身の[[ふにゃたら|弗若多羅]]と共に、弗若多羅が十誦律を暗記していたので、その暗記に基づいて訳した。しかし、その三分の二を訳した時、弗若多羅が死んだので、頓挫していた。しかしその後、[[どんまるし|曇摩流支]]が十誦律の梵本を持ってきたので、羅什は彼と共に残りを訳した。<br>
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 『十誦律』六十一巻は、[[くまらじゅう|鳩摩羅什]]三蔵が北インド出身の[[ふにゃたら|弗若多羅]]と共に、弗若多羅が十誦律を暗記していたので、その暗記に基づいて訳した。しかし、その3分の2を訳した時、弗若多羅が死んだので、頓挫していた。しかしその後、[[どんまるし|曇摩流支]]が十誦律の梵本を持ってきたので、羅什は彼と共に残りを訳した。<br>
 
 十誦律の訳出は西紀404‐409年頃である。しかし、訳文を刪煩しないうちに羅什が没したので、その後、羅什の律の師であった[[びまらしゃ|卑摩羅叉]]がこれを校訂して、61巻とした。
 
 十誦律の訳出は西紀404‐409年頃である。しかし、訳文を刪煩しないうちに羅什が没したので、その後、羅什の律の師であった[[びまらしゃ|卑摩羅叉]]がこれを校訂して、61巻とした。
  
 
 羅什の没後は、羅什の弟子たちが長安で栄えた。そのために西紀410年頃から500年頃までは、もっぱら'''十誦律'''が研究され、これに基づいて律の実践が行われた。
 
 羅什の没後は、羅什の弟子たちが長安で栄えた。そのために西紀410年頃から500年頃までは、もっぱら'''十誦律'''が研究され、これに基づいて律の実践が行われた。
  
 '''十誦律'''は薩婆多部(sarvaastivaadin)、すなわち[[せついっさいうぶ|説一切有部]]の律である。
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 '''十誦律'''は薩婆多部(sarvāstivādin सर्वास्तिवादिन्)、すなわち[[せついっさいうぶ|説一切有部]]の律である。
  
 
===テキスト===
 
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* [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1435_ 大正蔵 律部 vol.23 p.1a 十誦律]
 
* [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1435_ 大正蔵 律部 vol.23 p.1a 十誦律]

2024年4月4日 (木) 14:30時点における最新版

十誦律

daśabhāṇavāra-vinaya दशभाणवार विनय(S)

 『十誦律』六十一巻は、鳩摩羅什三蔵が北インド出身の弗若多羅と共に、弗若多羅が十誦律を暗記していたので、その暗記に基づいて訳した。しかし、その3分の2を訳した時、弗若多羅が死んだので、頓挫していた。しかしその後、曇摩流支が十誦律の梵本を持ってきたので、羅什は彼と共に残りを訳した。
 十誦律の訳出は西紀404‐409年頃である。しかし、訳文を刪煩しないうちに羅什が没したので、その後、羅什の律の師であった卑摩羅叉がこれを校訂して、61巻とした。

 羅什の没後は、羅什の弟子たちが長安で栄えた。そのために西紀410年頃から500年頃までは、もっぱら十誦律が研究され、これに基づいて律の実践が行われた。

 十誦律は薩婆多部(sarvāstivādin सर्वास्तिवादिन्)、すなわち説一切有部の律である。

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