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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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citta (skt.)
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<big>samdāgama</big>; <big>samutthāna</big>; <big>citta</big> (S)
  
 「心」と漢訳し、[[あらやしき|阿頼耶識]]の名とする。一切の現行の法し、この識にその[[しゅうじ|種子]]を[[くんじゅう|薫習]]するという意味を「集}とし、この識から一切の現行ほうを生ずるから「起」とする。
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 諸縁が集まって起こること。
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 [[ゆいしき|唯識]]では「心」と漢訳し、[[あらやしき|阿頼耶識]]の名とする。一切の現行の法し、この識にその[[しゅうじ|種子]]を[[くんじゅう|薫習]]するという意味を「集」とし、この識から一切の現行法を生ずるから「起」とする。
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集起を心と名づけ、思量を意と名づけ、了別を識と名づける    〔『[[じょうゆいしきろん|成唯識論]]』巻5、T31、24c〕

2017年5月18日 (木) 18:02時点における最新版

集起

samdāgama; samutthāna; citta (S)

 諸縁が集まって起こること。

 唯識では「心」と漢訳し、阿頼耶識の名とする。一切の現行の法し、この識にその種子薫習するという意味を「集」とし、この識から一切の現行法を生ずるから「起」とする。

集起を心と名づけ、思量を意と名づけ、了別を識と名づける    〔『成唯識論』巻5、T31、24c〕