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しゅうじ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

種子

bīja (S)

「種子」は、唯識法相宗では「しゅうじ」と読み、密教では「しゅじ」と読む。

 種子とはサンスクリットの「ビージャ」(bīja)であり、植物の種子のように、いろいろの現象を起こさせる可能性であり、可能力である。それは、もともと、ある現象が影響して自らに習慣的な刺激によって植えつけた印象であるところから熏習の気分という点で習気(じっけ)というのである。このように種子を熏習し、その種子が因となって種々の現象が顕現(あらわれる)するのであるという点を明らかにしたのが種子熏習説である。
 このような種子熏習説を述べる人々には、部派仏教の中、大衆部化地部経量部などがあるが、これらをうけてほんとうに学問的な基準をもって説いたのが、唯識学派法相宗である。
 存在を生じる阿頼耶識のなかの可能力。そのような可能力を植物の種子に職えて種子という。

 種子とは本識(阿頼耶識)のなかの親しく自らの果を生じる功能差別なり。〔『成論』2,T31-8a〕

と定義され、種子とは「功能差別」(功能(くのう)とは力用、差別(しゃべつ)とは特別の意)、すなわち特別の力をいう。特別の力とは、直接、自らの結果を生じる力をいう。
 〈唯識〉は、清らかな存在であれ、清らかでない存在であれ、迷いの存在であれ、さとりの存在であれ、ありとあらゆる存在を生じる根本原因である因縁(正因縁)は、阿頼耶識のなかの種子であると説く。外界の植物の種子を外種・外種子というのに対して内種・内種子・内法種子という。

 何法名為種子。謂、本識中親生自果功能差別。〔『成唯識論』2、T31-8a〕
 種子者、謂、本識中善染無記諸界地等功能差別。〔『成論』7,T31-40a〕

 阿頼耶識のなかの種子は、すべてまとめて名言種子といわれるが、そのなかで善業あるいは悪業によって善・悪のいずれかに色付けされた種子を別立して業種子とよぶ。種類として、世間種子・出世種子・不清浄種子・清浄種子の4種が説かれ、この4つにすべての種子が包括されるという〔『瑜伽』14、T30-348c〕。

本有種子・新熏種子

 一切の現実は、種子から現象が顕現(種子生現行)し、その顕現した現象が種子をまた熏習(現行熏種子)するという繰り返しの中に成立する。このような立場で、迷悟の問題を考える時、迷界から俗界へという立場では、一度も俗界が顕現したことはないから、そのような悟りの種子はない。
 その点で、本来的にそのような悟りの種子がなければならないというので、それに先天的にあるという意味の本有(ほんぬ)の種子を説く、その本有種子に対して、いろいろな現象によって常に印象づけられ、植えつけられたものを新熏種子とよぶのである。

名言種子・業種子

 この種子には悟りの種子も迷いの種子もあり、これを無漏種子、有漏種子とわける。
 実際に現象の原因となるものと、それを条件づけるものとに分けて名言種子(みょうごんしゅうじ)、業種子(ごっしゅうじ)などともよんでいる。

種子の条件

 種子については条件があり、これを種子の六義という。すなわち①刹那滅 ②果倶有 ③恒随転 ④性決定 ⑤待衆縁 ⑥引自乗の六である。

  1. 生滅変化するものであること
  2. 生起した結果と同時に離れずに存在すること
  3. 必ず一類相続して、前後に転易があってはならない
  4. 種子とその種子が現行したものとは、性において決定して変わらないものでなければならないこと、たとえば善の種子から悪の結果が出るというようなことがあってはならないからである
  5. 種子の一因のみで現象を生起するというのでなく、必ず多くの縁をもって現象を生起するものであること
  6. 物質と精神とについて、それぞれ別々に自因自果でなければならない

以上の六種の条件を具備するものが種子の名にあたいするものであるという。