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(三昧)
(初期仏教)
 
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samādhi समाधि(skt)
 
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 [[サンスクリット]]語を音写して、'''三昧'''、三摩提などとし、[[じょう|定]]、正受、調直定、正心行処、息慮凝心どと訳す。
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 [[サンスクリット]]語を音写して、'''三昧'''、三摩提、三摩地などとし、[[じょう|定]]、正受、調直定、正心行処、息慮凝心どと訳す。
  
 
* '''定'''    心を一処に定めて動くことがないから。
 
* '''定'''    心を一処に定めて動くことがないから。
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 [[しゃか|釈迦]]は、[[しゅっけ|出家]]してすぐに、無所有処と非想非非想処の境地に到達したが、そこで満足せず苦行を行い、さらに苦行を捨てて新しい行法を求めたことが[[ぶってん|仏典]]に知られる。<br>
 
 [[しゃか|釈迦]]は、[[しゅっけ|出家]]してすぐに、無所有処と非想非非想処の境地に到達したが、そこで満足せず苦行を行い、さらに苦行を捨てて新しい行法を求めたことが[[ぶってん|仏典]]に知られる。<br>
 
 つまり仏教にとっては、三昧によって精神作用を静止すること自体には意味がない。[[しかん|止観]]が、精神の止息状態だけでなく、'''観'''となって働かなければならないことを説明しているように、[[はっしょうどう|八正道]]の[[しょうけん|正見]]がなくてはならない、と説明されている。
 
 つまり仏教にとっては、三昧によって精神作用を静止すること自体には意味がない。[[しかん|止観]]が、精神の止息状態だけでなく、'''観'''となって働かなければならないことを説明しているように、[[はっしょうどう|八正道]]の[[しょうけん|正見]]がなくてはならない、と説明されている。
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:三摩地、謂、心一境性。〔『倶舎』4,T29-19a〕
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:三摩地云何。謂、於所観察事、随彼彼行、審盧所依、心一境性。〔『瑜伽師地論』3,T30-291c〕
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次のような種類が説かれる。
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# 二種。一分修三摩地・具分修三摩地〔『瑜伽師地論』12、T30-338c〕
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# 三種。小三摩地・大三摩地・無量三摩地〔『瑜伽師地論』12、T30-337c~338a〕、空三摩地・無願心三摩地・無相心三摩地〔『瑜伽師地論』12、T30-337a~b〕、喜倶行三摩地・楽倶行三摩地・捨倶行三摩地〔『瑜伽師地論』12、大正30・339a〕
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# 四種。欲三摩地・勤三摩地・心三摩地・観三摩地〔『瑜伽師地論』29、T30-443b〕。
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===初期仏教===
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 最初期の仏教の瞑想は、思考のかぎりをつくすという意味での瞑想であった。'''瞑想は、智慧を得るため'''のものだとはっきり規定されていたからである。<br>
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 ところが、いつのころからか、[[さんまい|三昧]](サマーディ)という、心の作用の停止状態、主客合一状態、つまり完全な'''無思考状態を目指す瞑想'''というものが、おそらく外部から仏教に取りこまれた。<br>
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 まず、[[むしょうしょじょう|無所有処定]](アーラーラ・カーラーマ仙が宣揚した境地)、空無辺処定、識無辺処定、[[ひそうひひそうじょ|非想非非想処]]定(ウッダカ・ラーマプッタ仙が宣揚した境地)という、いわゆる[[しむしきじょう|四無色定]]というものが立てられる。<br>
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 また、地、水、火、風、青、黄、赤、白、空、識のそれぞれと完全に合一することを目指す、[[じっぺんじょ|十遍処]]という瞑想も開発された。もちろん、これも三昧めあてのものである。こうした、三昧めあての無思考の瞑想は、やがて、大乗仏教になると大流行し、密教にいたってその頂点に達するのである。

2024年3月5日 (火) 15:30時点における最新版

三昧

samādhi समाधि(skt)

 サンスクリット語を音写して、三昧、三摩提、三摩地などとし、、正受、調直定、正心行処、息慮凝心どと訳す。

  •     心を一処に定めて動くことがないから。
  • 正受   正しく所観のを受けるから。
  • 調直定  心に暴を調え、心の曲がるのを直し、心が散るのを定めるから。
  • 正心行処 心の動きを正して、法に合わせるための依処であるから。
  • 息慮凝心 縁慮を止めて心念を凝結するから。

 この三昧の過程に、初禅から第四禅までの4段階があり、つづいて空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処といわれる。前の4つを四静慮(四禅)、後の4つを四無色定として、三昧の深まりが極まって心のあらゆる動きが全く止滅した状態(滅尽定)を併せて、九次第定と数える。

 釈迦は、出家してすぐに、無所有処と非想非非想処の境地に到達したが、そこで満足せず苦行を行い、さらに苦行を捨てて新しい行法を求めたことが仏典に知られる。
 つまり仏教にとっては、三昧によって精神作用を静止すること自体には意味がない。止観が、精神の止息状態だけでなく、となって働かなければならないことを説明しているように、八正道正見がなくてはならない、と説明されている。

三摩地、謂、心一境性。〔『倶舎』4,T29-19a〕
三摩地云何。謂、於所観察事、随彼彼行、審盧所依、心一境性。〔『瑜伽師地論』3,T30-291c〕

次のような種類が説かれる。

  1. 二種。一分修三摩地・具分修三摩地〔『瑜伽師地論』12、T30-338c〕
  2. 三種。小三摩地・大三摩地・無量三摩地〔『瑜伽師地論』12、T30-337c~338a〕、空三摩地・無願心三摩地・無相心三摩地〔『瑜伽師地論』12、T30-337a~b〕、喜倶行三摩地・楽倶行三摩地・捨倶行三摩地〔『瑜伽師地論』12、大正30・339a〕
  3. 四種。欲三摩地・勤三摩地・心三摩地・観三摩地〔『瑜伽師地論』29、T30-443b〕。

初期仏教

   最初期の仏教の瞑想は、思考のかぎりをつくすという意味での瞑想であった。瞑想は、智慧を得るためのものだとはっきり規定されていたからである。
 ところが、いつのころからか、三昧(サマーディ)という、心の作用の停止状態、主客合一状態、つまり完全な無思考状態を目指す瞑想というものが、おそらく外部から仏教に取りこまれた。
 まず、無所有処定(アーラーラ・カーラーマ仙が宣揚した境地)、空無辺処定、識無辺処定、非想非非想処定(ウッダカ・ラーマプッタ仙が宣揚した境地)という、いわゆる四無色定というものが立てられる。
 また、地、水、火、風、青、黄、赤、白、空、識のそれぞれと完全に合一することを目指す、十遍処という瞑想も開発された。もちろん、これも三昧めあてのものである。こうした、三昧めあての無思考の瞑想は、やがて、大乗仏教になると大流行し、密教にいたってその頂点に達するのである。