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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 究極の根拠。法がそれによって成立している根拠。実在の極限。存の究極的なすがた。法性・真如・空と同義であり、諸法実相の異名である。真実の理法。
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 究極の根拠。法がそれによって成立している根拠。実在の極限。存の究極的なすがた。[[ほっしょう|法性]]・[[しんにょ|真如]]・[[くう|空]]と同義であり、[[しょほうじっそう|諸法実相]]の異名である。真実の理法。
  
 
:涅槃の異名なり。
 
:涅槃の異名なり。
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『倶舎論』vol.27、『維摩経』T14-540a、『中論』25.20
 
『倶舎論』vol.27、『維摩経』T14-540a、『中論』25.20
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 存在の究極的なあり方(実際)とは、〔法性で述べた、世り知れなり存在の其の本性を真実(実)として確証し、それゆえそれを究極(際)とするということである。〔大智度論32、T25. 298a〕
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 「[[にょ|如]]」「[[ほっしょう|法性]]」「'''実際'''」の3つのことは、すべて、「すべての存在の真実あるがままのすがた」('''諸法実相''')の別名である。<br>
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 凡夫は無知で、すべての存在物について誤った考えをする。すなわち、心を恒常なるのと考え、感覚を快楽と考え、身体を清浄なものと考え、またものには実体的な本質があり、人には自我があるなどと考える。これに対して、仏弟子は、諸存在をそれらが本来そなえているすがた('''本相''')のままに観る。その場合には、仏弟子は、そこに恒常なものを見ることなくそれを「'''無常'''」と呼び、快楽を見ることなくそれを「'''苦'''」と呼び、清浄なものを見ることなくそれを「'''不浄'''」と呼び、実体的な本質を見ることなくそれを「'''空'''」と呼び、自我を見ることなくそれを「'''無我'''」と呼ぶ。しかしながらまた、もし〔諸存在について〕、恒常なものを見ることなくそこに無常なものを見るならば、これもまた誤った見方である。苦、空、無我、不浄を見るのもまた同じく誤った見方である。以上が「'''如'''」(あるがまま)と呼ばれるものである。「如」は本来的に何物によっても破壊されない。それゆえ仏は次の三命題からなる教え(三法)を説かれて、それを仏の教えの目印(法印)とされた。すなわち、「原因によって作り出されたすぺての制約的存在は無常である」('''一切有為法無常''')という目印、「すぺての存在は本質をもたない」('''一切法無我''')という目印、「涅槃はすべての心的活動が停止した状態である」('''涅槃寂滅''')という目印がそれである。〔〃、T25. 297c〕

2023年1月5日 (木) 10:03時点における最新版

実際

koṭi (S)

 究極の根拠。法がそれによって成立している根拠。実在の極限。存の究極的なすがた。法性真如と同義であり、諸法実相の異名である。真実の理法。

涅槃の異名なり。
二乗の涅槃の事なり。

『倶舎論』vol.27、『維摩経』T14-540a、『中論』25.20

 存在の究極的なあり方(実際)とは、〔法性で述べた、世り知れなり存在の其の本性を真実(実)として確証し、それゆえそれを究極(際)とするということである。〔大智度論32、T25. 298a〕

 「」「法性」「実際」の3つのことは、すべて、「すべての存在の真実あるがままのすがた」(諸法実相)の別名である。

 凡夫は無知で、すべての存在物について誤った考えをする。すなわち、心を恒常なるのと考え、感覚を快楽と考え、身体を清浄なものと考え、またものには実体的な本質があり、人には自我があるなどと考える。これに対して、仏弟子は、諸存在をそれらが本来そなえているすがた(本相)のままに観る。その場合には、仏弟子は、そこに恒常なものを見ることなくそれを「無常」と呼び、快楽を見ることなくそれを「」と呼び、清浄なものを見ることなくそれを「不浄」と呼び、実体的な本質を見ることなくそれを「」と呼び、自我を見ることなくそれを「無我」と呼ぶ。しかしながらまた、もし〔諸存在について〕、恒常なものを見ることなくそこに無常なものを見るならば、これもまた誤った見方である。苦、空、無我、不浄を見るのもまた同じく誤った見方である。以上が「」(あるがまま)と呼ばれるものである。「如」は本来的に何物によっても破壊されない。それゆえ仏は次の三命題からなる教え(三法)を説かれて、それを仏の教えの目印(法印)とされた。すなわち、「原因によって作り出されたすぺての制約的存在は無常である」(一切有為法無常)という目印、「すぺての存在は本質をもたない」(一切法無我)という目印、「涅槃はすべての心的活動が停止した状態である」(涅槃寂滅)という目印がそれである。〔〃、T25. 297c〕