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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
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+ | 異類の行業をまじえて修することをいう。 | ||
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+ | 有漏定と無漏定を相いまじえて修行するのを、雑修定という。 | ||
+ | : 是の如く有漏の中間の刹那と前後の刹那とに無漏を雑えるが故に雑修定と名ずく。〔倶舎論24、T29.0125c〕 | ||
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+ | また、唐の善導が、往生浄土の行に五種の正行と五種の雑行とを分別し、正行の中第四の念仏を正業とし、他を助業として、念仏の一行に他の助業または雑行を雑糅するのを雑業と名付け、雑業を修するのを雑修という。 | ||
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+ | : もし専を捨てて雑業を修せんと欲するものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得。〔往生礼讃、p.659〕 | ||
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+ | :ただ意をもつぱらにしてなせば、十はすなはち十ながら生ず。雑を修して至心ならざれば、千がなかに一もなし。〔〃、p.660〕 | ||
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+ | 親鸞は、さらに雑行雑修の2つを弁別して、'''念佛に雑行を兼ねるのを雑行'''とし、'''念佛に前三後一の助業を兼ねるのを雑修'''とした。これは眞宗の特色である。 | ||
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+ | :; それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。〔化身土巻、p.395〕 | ||
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+ | :;諸善兼行するがゆゑに雑行といふ、‥‥雑修とは、助正兼行するがゆゑに雑修といふ。〔〃、p.396〕 |
2023年1月19日 (木) 09:26時点における最新版
雑修
浄土教において、さまざまな行をまじえて修するといった、純一でないあり方をいう。専修に対する語。
雑修の様相
- 雑行を修すること。
- 五正行中の正定業と助業を同格にみなして修すること。
- 行は正行であっても、修する心が自力心である場合をいう。
- 専ら念仏を修しても、そのことをもって現世の福利を祈る場合をいう。専名祈現
雑修:雜脩
異類の行業をまじえて修することをいう。
有漏定と無漏定を相いまじえて修行するのを、雑修定という。
- 是の如く有漏の中間の刹那と前後の刹那とに無漏を雑えるが故に雑修定と名ずく。〔倶舎論24、T29.0125c〕
また、唐の善導が、往生浄土の行に五種の正行と五種の雑行とを分別し、正行の中第四の念仏を正業とし、他を助業として、念仏の一行に他の助業または雑行を雑糅するのを雑業と名付け、雑業を修するのを雑修という。
- もし専を捨てて雑業を修せんと欲するものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得。〔往生礼讃、p.659〕
- ただ意をもつぱらにしてなせば、十はすなはち十ながら生ず。雑を修して至心ならざれば、千がなかに一もなし。〔〃、p.660〕
親鸞は、さらに雑行雑修の2つを弁別して、念佛に雑行を兼ねるのを雑行とし、念佛に前三後一の助業を兼ねるのを雑修とした。これは眞宗の特色である。
- それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。〔化身土巻、p.395〕
- 諸善兼行するがゆゑに雑行といふ、‥‥雑修とは、助正兼行するがゆゑに雑修といふ。〔〃、p.396〕