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インドから請来したのは、仏舎利150粒、仏像8体、経典520夾、657部で、弘福寺に安置された。皇帝[[たいしゅう|太宗]]は勅を下してただちに訳経を開始させ、はじめは弘福寺で、のちには大慈恩寺で訳経に専念した。<br> | インドから請来したのは、仏舎利150粒、仏像8体、経典520夾、657部で、弘福寺に安置された。皇帝[[たいしゅう|太宗]]は勅を下してただちに訳経を開始させ、はじめは弘福寺で、のちには大慈恩寺で訳経に専念した。<br> | ||
− | 20年間に訳出した大乗小乗の経論は、''大般若波羅蜜多経'' 600巻をはじめ、''瑜伽師地論'' ''[[倶舎論]]''など75部、1235巻に達した。その訳は逐語訳を特徴とし、新訳と呼ばれ、クマーラジーバ([[くまらじゅう|鳩摩羅什]])らの旧訳と区別される。<br> | + | 20年間に訳出した大乗小乗の経論は、''大般若波羅蜜多経'' 600巻をはじめ、''瑜伽師地論'' ''[[くしゃろん|倶舎論]]''など75部、1235巻に達した。その訳は逐語訳を特徴とし、新訳と呼ばれ、クマーラジーバ([[くまらじゅう|鳩摩羅什]])らの旧訳と区別される。<br> |
門下の[[きき|窺基]]、[[えんじき|円測]]、普光らにより法相宗、倶舎宗が興った。<br> | 門下の[[きき|窺基]]、[[えんじき|円測]]、普光らにより法相宗、倶舎宗が興った。<br> | ||
弟子の弁機に編述させた旅行記''[[だいとうさいいきき|大唐西域記]]'' 12巻は、彼の伝記である''大唐大慈恩寺三蔵法師伝'' 10巻ともども、正確無比な記述によって、7世紀の西域、インドを知る貴重な文献である。西安南郊の興教寺に墓所がある。 | 弟子の弁機に編述させた旅行記''[[だいとうさいいきき|大唐西域記]]'' 12巻は、彼の伝記である''大唐大慈恩寺三蔵法師伝'' 10巻ともども、正確無比な記述によって、7世紀の西域、インドを知る貴重な文献である。西安南郊の興教寺に墓所がある。 | ||
:小説''[[さいゆうき|西遊記]]'' のテーマとなったことが知られている。 | :小説''[[さいゆうき|西遊記]]'' のテーマとなったことが知られている。 |
2004年3月28日 (日) 07:15時点における版
玄奘 (げんじょう、Xuan zang、602年-664年)
- 「玄弉」の文字を使うのが正しいが、通常コンピュータ上では上記のように表記されている。
中国、唐代初期の仏教僧。インドへの求法僧で、一般には三蔵法師として知られる。
俗姓は陳氏。洛陽に近い陳留郡(河南省)誠氏県に生まれた。
- 13歳のときに出家し、兄の長捷のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学ぶ。
- 618年 隋・唐王朝交代期に、兄とともに長安に入るが、兵乱のため講義がなかったので、蜀(四川省)の空慧寺に入った。
- 622年(武徳5年)に具足戒をうけ、成都から草州、相州、趙州をへて長安に戻り、大覚寺に住んで道岳、法常、僧弁といった学僧から倶舎論や摂大乗論の教義を受けた。しかし、多くの疑義を解決することができず、本場の学者から瑜伽師地論 を学びたいと、インド留学を決意した。当時、唐の法律では国外への旅行が禁止されていたので、僧数名とともに願書を出したが却下された。
- 629年(貞観3年)国禁を犯して求法の途についた。
- 高昌国王からの懇請で、伊吾から高昌に向かい、国王から旅費などの寄進をうけた。
- クチャから天山山脈を越えて北路に出、西突厥(とつけつ)の統葉護可汗に会う。
- アフガニスタンから北インドに入り、中インドのマガダ国ナーランダ寺に至った。
- この寺に5年とどまり、シーラバドラ(戒賢、ziilabhadra)について瑜伽師地論をはじめとする無著・世親系の瑜伽唯識の教学をきわめた。
- その後、インド各地に求法と仏跡巡礼の旅を続け、多数の仏典を収集して帰路につく。
- 645年 ヒンドゥークシュ山脈とパミール高原を越え、ホータンを通り、17年ぶりの長安に帰った。
インドから請来したのは、仏舎利150粒、仏像8体、経典520夾、657部で、弘福寺に安置された。皇帝太宗は勅を下してただちに訳経を開始させ、はじめは弘福寺で、のちには大慈恩寺で訳経に専念した。
20年間に訳出した大乗小乗の経論は、大般若波羅蜜多経 600巻をはじめ、瑜伽師地論 倶舎論など75部、1235巻に達した。その訳は逐語訳を特徴とし、新訳と呼ばれ、クマーラジーバ(鳩摩羅什)らの旧訳と区別される。
門下の窺基、円測、普光らにより法相宗、倶舎宗が興った。
弟子の弁機に編述させた旅行記大唐西域記 12巻は、彼の伝記である大唐大慈恩寺三蔵法師伝 10巻ともども、正確無比な記述によって、7世紀の西域、インドを知る貴重な文献である。西安南郊の興教寺に墓所がある。
- 小説西遊記 のテーマとなったことが知られている。