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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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しょうぎょうりょう、zabda-pramaaNa शब्दप्रमाण(sanskrit)
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<big>śabda-pramāṇa</big> शब्दप्रमाण(sanskrit)
  
 [[サンスクリット]]の zabda は「声」「音」という意味で、インドの哲学の諸派では、これを認識方法の一つとして「信頼すべき人の言葉」という意味で、自らの得た智の正否を判断する規範としている。<br>
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 [[サンスクリット]]の śabda は「声」「音」という意味で、インドの哲学の諸派では、これを認識方法の一つとして「信頼すべき人の言葉」という意味で、自らの得た智の正否を判断する規範としている。<br>
 ミーマーンサー学派によれば、zabda は、単なる音声ではなく、音声を超越して実在し、言葉は音声と意味を媒介するものとして、常住であるとした(語常住論)。[[ニヤーヤ]]学派や[[ヴァイシェーシカ]]学派は、この語常住論に反対した。<br>
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 ミーマーンサー学派によれば、śabda は、単なる音声ではなく、音声を超越して実在し、言葉は音声と意味を媒介するものとして、常住であるとした(語常住論)。[[ニヤーヤ]]学派や[[ヴァイシェーシカ]]学派は、この語常住論に反対した。<br>
 バルトリハリは、言葉と意味との結合関係は常住不変であるとして、言葉の本性としての「spoTa」という概念を提唱した。
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 バルトリハリは、言葉と意味との結合関係は常住不変であるとして、言葉の本性としての「spoṭa」という概念を提唱した。
  
 
 [[ぶっきょう|仏教]]では、[[しゃか|釈迦]]の言葉に意味があるのではないことを常々説いていた。しかし、仏滅後、経典や戒律が整備されるにつれ、しだいに釈迦の言葉が規範として聖教量となっていった。そのため、ニヤーヤ学派などとの討論のために整備された仏教の論理学も、聖教量を認めた三量説であった。<br>
 
 [[ぶっきょう|仏教]]では、[[しゃか|釈迦]]の言葉に意味があるのではないことを常々説いていた。しかし、仏滅後、経典や戒律が整備されるにつれ、しだいに釈迦の言葉が規範として聖教量となっていった。そのため、ニヤーヤ学派などとの討論のために整備された仏教の論理学も、聖教量を認めた三量説であった。<br>
 
 ところが、[[じんな|陳那]]が出るに及んで、正しい智であるかどうかは聖教量によって判定されるべきものではなく、自らが論証して判断すべきものであるとして、二量説を立てた。<br>
 
 ところが、[[じんな|陳那]]が出るに及んで、正しい智であるかどうかは聖教量によって判定されるべきものではなく、自らが論証して判断すべきものであるとして、二量説を立てた。<br>
 
 しかしながら、陳那の系統が衰退したことと、密教などが発展したことなどにより、中国などではふたたび聖教量が認められるようになってしまった。
 
 しかしながら、陳那の系統が衰退したことと、密教などが発展したことなどにより、中国などではふたたび聖教量が認められるようになってしまった。

2017年4月30日 (日) 14:34時点における版

聖教量

śabda-pramāṇa शब्दप्रमाण(sanskrit)

 サンスクリットの śabda は「声」「音」という意味で、インドの哲学の諸派では、これを認識方法の一つとして「信頼すべき人の言葉」という意味で、自らの得た智の正否を判断する規範としている。
 ミーマーンサー学派によれば、śabda は、単なる音声ではなく、音声を超越して実在し、言葉は音声と意味を媒介するものとして、常住であるとした(語常住論)。ニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派は、この語常住論に反対した。
 バルトリハリは、言葉と意味との結合関係は常住不変であるとして、言葉の本性としての「spoṭa」という概念を提唱した。

 仏教では、釈迦の言葉に意味があるのではないことを常々説いていた。しかし、仏滅後、経典や戒律が整備されるにつれ、しだいに釈迦の言葉が規範として聖教量となっていった。そのため、ニヤーヤ学派などとの討論のために整備された仏教の論理学も、聖教量を認めた三量説であった。
 ところが、陳那が出るに及んで、正しい智であるかどうかは聖教量によって判定されるべきものではなく、自らが論証して判断すべきものであるとして、二量説を立てた。
 しかしながら、陳那の系統が衰退したことと、密教などが発展したことなどにより、中国などではふたたび聖教量が認められるようになってしまった。