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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
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すなわち「渇愛」は、「[[よくあい|欲愛]]・[[うあい|有愛]]・無有愛」(p:kaamataNhaa,bhavataNhaa,vibhavataNhaa)〔マハーヴァッガ(I.6.20)〕と定義されるが、これは渇愛とは「愛欲」(p:kaama)であり、この世界と人間との根底をなす普遍的・根源的な性的欲求または意志が、現実世界において人間に対して生存・自我拡大への欲求(有愛,リビドー)とその逆の生存否定への願望(無有愛,モルティドー)として働き、人間を永遠に苦の世界に輪廻せしめていることを意味する。したがって、この苦の現世を離脱することを目的とする根本仏教においては、自らの婬欲を抑制し克服すること([[ぼんぎょう|梵行]])がその実践の本質をなす。すなわち、性行為の禁止(不婬戒)が出家者の戒律の根本をなし、その違反は直ちに教団からの追放という最重罪([[はらい|波羅夷罪]])を形成する。ただし、在家信者には不邪婬戒(ふじゃいんかい)が課せられるにとどまる。 | すなわち「渇愛」は、「[[よくあい|欲愛]]・[[うあい|有愛]]・無有愛」(p:kaamataNhaa,bhavataNhaa,vibhavataNhaa)〔マハーヴァッガ(I.6.20)〕と定義されるが、これは渇愛とは「愛欲」(p:kaama)であり、この世界と人間との根底をなす普遍的・根源的な性的欲求または意志が、現実世界において人間に対して生存・自我拡大への欲求(有愛,リビドー)とその逆の生存否定への願望(無有愛,モルティドー)として働き、人間を永遠に苦の世界に輪廻せしめていることを意味する。したがって、この苦の現世を離脱することを目的とする根本仏教においては、自らの婬欲を抑制し克服すること([[ぼんぎょう|梵行]])がその実践の本質をなす。すなわち、性行為の禁止(不婬戒)が出家者の戒律の根本をなし、その違反は直ちに教団からの追放という最重罪([[はらい|波羅夷罪]])を形成する。ただし、在家信者には不邪婬戒(ふじゃいんかい)が課せられるにとどまる。 |
2008年1月25日 (金) 22:47時点における版
婬欲
性欲のこと。
仏教はこの世界の現相を輪廻として捉え、この世界内にある人間の生を根本的に苦であると認定する(苦諦(くたい))。釈尊の立場は、この苦の原因を世界の本質が渇愛(p:taNhaa)であることに求め(集諦(じったい))、その渇愛を滅して涅槃の寂静(滅諦(めったい))に帰するために行を行ずべきである(道諦(どうたい))、というに尽くされるのであるが(四諦)、この場合の渇愛の最も端的な現れが「婬欲」である。
その克服
すなわち「渇愛」は、「欲愛・有愛・無有愛」(p:kaamataNhaa,bhavataNhaa,vibhavataNhaa)〔マハーヴァッガ(I.6.20)〕と定義されるが、これは渇愛とは「愛欲」(p:kaama)であり、この世界と人間との根底をなす普遍的・根源的な性的欲求または意志が、現実世界において人間に対して生存・自我拡大への欲求(有愛,リビドー)とその逆の生存否定への願望(無有愛,モルティドー)として働き、人間を永遠に苦の世界に輪廻せしめていることを意味する。したがって、この苦の現世を離脱することを目的とする根本仏教においては、自らの婬欲を抑制し克服すること(梵行)がその実践の本質をなす。すなわち、性行為の禁止(不婬戒)が出家者の戒律の根本をなし、その違反は直ちに教団からの追放という最重罪(波羅夷罪)を形成する。ただし、在家信者には不邪婬戒(ふじゃいんかい)が課せられるにとどまる。