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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 認識される対象。縁とは広くは認識一般をいい、「認識されるもの」を所縁、「認識するもの」を能縁という。<br>
 
 認識される対象。縁とは広くは認識一般をいい、「認識されるもの」を所縁、「認識するもの」を能縁という。<br>
 たとえば6つの感官である眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六根の所縁は6つの対象である色・声・香・味・触・法の六境である。そのような認識対象は部派仏教までは心の外に存在すると考えられた。<br>
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 たとえば6つの感官である眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六[[こん|根]]の'''所縁'''は6つの対象である色・声・香・味・触・法の六[[きょう|境]]である。そのような認識対象は部派仏教までは心の外に存在すると考えられた。<br>
 [[ゆいしき|唯識]]では、一切は心すなわち識の現れであるという立場より、所縁は心のなかにあると主張する。所縁の対象性を明確にするために境・境界・境事・事を付加して所縁境・所縁境界・所縁境事・所縁事ということがある。
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 [[ゆいしき|唯識]]では、一切は心すなわち[[しき|識]]の現れであるという立場より、'''所縁'''は心のなかにあると主張する。<br>
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 所縁の対象性を明確にするために境・境界・境事・事を付加して所縁境・所縁境界・所縁境事・所縁事ということがある。
  
 
  境界・所縁復有何別。若於彼法、此有功能、即説彼為此法境界。心心所法執彼而起、彼於心等名為所縁。〔[[くしゃろん|倶舎論]]2,T29-7a〕
 
  境界・所縁復有何別。若於彼法、此有功能、即説彼為此法境界。心心所法執彼而起、彼於心等名為所縁。〔[[くしゃろん|倶舎論]]2,T29-7a〕

2018年6月16日 (土) 11:29時点における最新版

所縁

ālambana, ālambya (S)

 認識される対象。縁とは広くは認識一般をいい、「認識されるもの」を所縁、「認識するもの」を能縁という。
 たとえば6つの感官である眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六所縁は6つの対象である色・声・香・味・触・法の六である。そのような認識対象は部派仏教までは心の外に存在すると考えられた。
 唯識では、一切は心すなわちの現れであるという立場より、所縁は心のなかにあると主張する。
 所縁の対象性を明確にするために境・境界・境事・事を付加して所縁境・所縁境界・所縁境事・所縁事ということがある。

境界・所縁復有何別。若於彼法、此有功能、即説彼為此法境界。心心所法執彼而起、彼於心等名為所縁。〔倶舎論2,T29-7a〕
所依者、謂、眼等六根。所縁者、謂、色等六境。〔倶舎論6,T29-31c〕
所縁者、帯行相所篝盧義。〔『略纂』1、T43-5c〕
内識所縁、不離心之境、我亦許有。然心外所縁縁、決定非有。外人執他身心聚等一切外境能生心者、皆所縁縁体、故今非之。〔『述記』2本、T43-269b〕