「グプタ」の版間の差分
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
1行目: | 1行目: | ||
− | + | =[[チャンドラグプタ]]= | |
− | + | ||
(Chandragupta インド、グプタ朝の創始者。在位320ころ‐335年ころ。生没年不詳) | (Chandragupta インド、グプタ朝の創始者。在位320ころ‐335年ころ。生没年不詳) | ||
マガダ地方の一小君主から身を興し、 マハーラージャーディラージャ(Mahaaraajaadhiraaja、諸王中の大王)と称してパータリプトラを首都に定め、今日のアラーハーバードあたりまで勢力を伸張した。ブッダ時代の名家リッチャビ家の娘クマーラデービーとの結婚は政治権力増大にあずかって力があったとされ、王朝の金貨に王と王妃の像が印されている。 320 年をもって始まるグプタ暦も王の即位を記念してつくられたと考えられている。 | マガダ地方の一小君主から身を興し、 マハーラージャーディラージャ(Mahaaraajaadhiraaja、諸王中の大王)と称してパータリプトラを首都に定め、今日のアラーハーバードあたりまで勢力を伸張した。ブッダ時代の名家リッチャビ家の娘クマーラデービーとの結婚は政治権力増大にあずかって力があったとされ、王朝の金貨に王と王妃の像が印されている。 320 年をもって始まるグプタ暦も王の即位を記念してつくられたと考えられている。 | ||
− | + | ---- | |
+ | =[[グプタちょう|グプタ朝]]= | ||
古代インドの統一王朝。 320‐550年ころ。クシャーナ朝滅亡後の北インドの分裂状態のなかで、マガダ地方の小地域の支配者から興起した。 | 古代インドの統一王朝。 320‐550年ころ。クシャーナ朝滅亡後の北インドの分裂状態のなかで、マガダ地方の小地域の支配者から興起した。 | ||
− | + | ---- | |
+ | =グプタ文字= | ||
古代のインドの文字である[[ブラーフミー]]文字のうち北方系のもの。 グプタ朝期に、[[バラモン]]教学の体系化、法典類の整備が進められ、[[サンスクリット]]文学は最盛期に入り、美術工芸・天文学・数学・医学の各分野で進歩が見られた。これは各分野にわたって膨大な文書、文献が書かれたことを意味し、書字材料・技法の進歩を示唆する。これまでのブラーフミー文字と比べると、より速く書け、装飾を施し、しかも均斉美を重視する傾向が見られるようになった。<br> | 古代のインドの文字である[[ブラーフミー]]文字のうち北方系のもの。 グプタ朝期に、[[バラモン]]教学の体系化、法典類の整備が進められ、[[サンスクリット]]文学は最盛期に入り、美術工芸・天文学・数学・医学の各分野で進歩が見られた。これは各分野にわたって膨大な文書、文献が書かれたことを意味し、書字材料・技法の進歩を示唆する。これまでのブラーフミー文字と比べると、より速く書け、装飾を施し、しかも均斉美を重視する傾向が見られるようになった。<br> | ||
アラーハーバードにあるグプタ朝の王サムドラグプタの碑文(350 年ころ)は代表例としてよく知られている。この文字は、5-6世紀に西北インドを経由して中央アジアに入り、[[カローシュティー]]文字に取って代わった。 | アラーハーバードにあるグプタ朝の王サムドラグプタの碑文(350 年ころ)は代表例としてよく知られている。この文字は、5-6世紀に西北インドを経由して中央アジアに入り、[[カローシュティー]]文字に取って代わった。 |
2006年12月6日 (水) 18:55時点における版
チャンドラグプタ
(Chandragupta インド、グプタ朝の創始者。在位320ころ‐335年ころ。生没年不詳)
マガダ地方の一小君主から身を興し、 マハーラージャーディラージャ(Mahaaraajaadhiraaja、諸王中の大王)と称してパータリプトラを首都に定め、今日のアラーハーバードあたりまで勢力を伸張した。ブッダ時代の名家リッチャビ家の娘クマーラデービーとの結婚は政治権力増大にあずかって力があったとされ、王朝の金貨に王と王妃の像が印されている。 320 年をもって始まるグプタ暦も王の即位を記念してつくられたと考えられている。
グプタ朝
古代インドの統一王朝。 320‐550年ころ。クシャーナ朝滅亡後の北インドの分裂状態のなかで、マガダ地方の小地域の支配者から興起した。
グプタ文字
古代のインドの文字であるブラーフミー文字のうち北方系のもの。 グプタ朝期に、バラモン教学の体系化、法典類の整備が進められ、サンスクリット文学は最盛期に入り、美術工芸・天文学・数学・医学の各分野で進歩が見られた。これは各分野にわたって膨大な文書、文献が書かれたことを意味し、書字材料・技法の進歩を示唆する。これまでのブラーフミー文字と比べると、より速く書け、装飾を施し、しかも均斉美を重視する傾向が見られるようになった。
アラーハーバードにあるグプタ朝の王サムドラグプタの碑文(350 年ころ)は代表例としてよく知られている。この文字は、5-6世紀に西北インドを経由して中央アジアに入り、カローシュティー文字に取って代わった。