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* '''定''' 心を一処に定めて動くことがないから。 | * '''定''' 心を一処に定めて動くことがないから。 | ||
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* '''息慮凝心''' 縁慮を止めて心念を凝結するから。 | * '''息慮凝心''' 縁慮を止めて心念を凝結するから。 | ||
− | + | この三昧の過程に、初禅から第四禅までの4段階があり、つづいて空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処といわれる。前の四つを四静慮(四禅)、後の四つを四無色定として、三昧の深まりが極まって心のあらゆる動きが全く止滅した状態('''滅尽定''')を併せて、九次第定と数える。 | |
− | [[しゃか|釈迦]]は、[[しゅっけ|出家]]してすぐに、無所有処と非想非非想処の境地に到達したが、そこで満足せず苦行を行い、さらに苦行を捨てて新しい行法を求めたことが[[ぶってん|仏典]]に知られる。<br> | + | [[しゃか|釈迦]]は、[[しゅっけ|出家]]してすぐに、無所有処と非想非非想処の境地に到達したが、そこで満足せず苦行を行い、さらに苦行を捨てて新しい行法を求めたことが[[ぶってん|仏典]]に知られる。<br> |
− | + | つまり仏教にとっては、三昧によって精神作用を静止すること自体には意味がない。[[しかん|止観]]が、精神の止息状態だけでなく、'''観'''となって働かなければならないことを説明しているように、[[はっしょうどう|八正道]]の[[しょうけん|正見]]がなくてはならない、と説明されている。 |
2008年1月14日 (月) 20:12時点における版
三昧
samaadhi समाधि(skt)
サンスクリット語を音写して、三昧、三摩提などとし、定、正受、調直定、正心行処、息慮凝心どと訳す。
- 定 心を一処に定めて動くことがないから。
- 正受 正しく所観の法を受けるから。
- 調直定 心に暴を調え、心の曲がるのを直し、心が散るのを定めるから。
- 正心行処 心の動きを正して、法に合わせるための依処であるから。
- 息慮凝心 縁慮を止めて心念を凝結するから。
この三昧の過程に、初禅から第四禅までの4段階があり、つづいて空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処といわれる。前の四つを四静慮(四禅)、後の四つを四無色定として、三昧の深まりが極まって心のあらゆる動きが全く止滅した状態(滅尽定)を併せて、九次第定と数える。
釈迦は、出家してすぐに、無所有処と非想非非想処の境地に到達したが、そこで満足せず苦行を行い、さらに苦行を捨てて新しい行法を求めたことが仏典に知られる。
つまり仏教にとっては、三昧によって精神作用を静止すること自体には意味がない。止観が、精神の止息状態だけでなく、観となって働かなければならないことを説明しているように、八正道の正見がなくてはならない、と説明されている。