「そく」の版間の差分
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+ | 天台教学で'''即'''を、仏教教学を考えて明らかにしたもの。四明〈しめい〉の知礼〈ちれい〉は、『十不二門私要鈔』の中で | ||
+ | : 今家に即を明かすは永く諸師に異なる。二物相合に非ず、及び背面相翻に非ず、直ちに当体全是をもって、まさに名けて即とするをもってなり | ||
+ | と言っている。これによれば、'''即'''という文字の用い方に3種あり、天台教学では当体全是の意味でいう、と主張している。 | ||
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+ | ===二物相合の即=== | ||
+ | 体の別である2つの事物が不相離の関係にある場合をいう。たとえば「雲のあるところが即ち空〈そら〉である」という場合の即の意味である。この場合、空と雲とは不相離であるが、雲は雲であり、空は空であるから体別といわれ、ものがら〈体〉が違っているわけである。<br> | ||
+ | しかし、空というものは雲の浮かんでいるところということで具体的に指示されている点、雲を離れて空は指示されないから不相離である。 | ||
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+ | ===背面相翻の即=== | ||
+ | 見た目には全く別のように見えても、それは本来同一のものである場合で、「表に即する裏」という如くである。掌の表と裏や、織物の表裏もそうである。布の表と裏は見た目には異なっているが、同じ糸で織った一枚の布であることに変わりがない。<br> | ||
+ | 一切のものは、すべてそれぞれに無自性〈むじしょう〉であり、空〈くう〉でありながら、この無自性であり、空であるものが、そのまま相互に関係しあって意味ある存在となっているのであるから、無自性空のままで縁起の有であり、縁起の有のままで無自性空であると、空即縁起・縁起即空と説くのがこれである。 | ||
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+ | 二つの事柄が、そのものとして不二の関係にある場合をいうので、たとえば、渋柿がそのまま甘柿となるという場合の如くである。渋柿の渋を抜いて甘柿としたのではなく、渋がそのまま甘くなったとたとえられるのである。<br> | ||
+ | '''煩悩即菩提'''とか、'''生死即涅槃'''と言われるが、煩悩と菩提や、生死と涅槃が矛盾対立でない点は注意しなければならない。つまり、煩悩を否定しても直ちに菩提ではなく、菩提を否定しても直ちに煩悩とはいえない。また、生死の否定において直ちに涅槃ではない。<br> | ||
+ | その意味で、'''当体全是の即'''は、弁証法的な意味での矛盾の自己同一ではない。ここに仏教思想の立場と、ヨーロッパ思想の立場との差異がある。 | ||
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+ | この'''当体全是の即'''の意味から、「一即一切、一切即一」と説かれ、「頓証菩提」とか「娑婆即寂光土」とか言われるのである。<br> | ||
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+ | また、華厳教学では、このような思想的立場をふまえて、相即・相入を説く。 | ||
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+ | 二つの事物が、そのまま'''即'''する意味である。<br> | ||
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+ | 全く別のものが、すべて相互に働き入ることができ、一切が無碍であるという。それは、有力無力相即するからである。たとえば、一が有力となるとき、他は無力となって、その有力を受けこむことができるから、無力なものに有力は働き入る。これが相互に'''相入'''することができるから、一切は融通無碍であるわけである。<br> | ||
+ | 水と火とは全く相容れないが、火によって水を熱することができるのは、火の力が水に働き入って、水を熱することができるのである。 | ||
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対象に触れて認識することのできる、感触のみの状態をいう。まだ、思考の入っていない段階。 | 対象に触れて認識することのできる、感触のみの状態をいう。まだ、思考の入っていない段階。 |
2009年2月20日 (金) 09:08時点における版
即
維摩経(入不二法門品)に
- 色は即(そく)是空…是(こ)れを不二の法門に入ると為す
とあり、摩訶止観(1上)に
- 煩悩は即(そく)般若、結業は即解脱
とあるように、二つのもの・ことが、論理的な面において密着して一つ(不二(ふに))となり、時間的な面においては直ちに結合して連続することをいう。いずれにせよ、たがいに異なる(もしくは異なると考えられている)もの・ことが、その間の相異性をある意味では残しつつ、一体化するという理論は、仏教の縁起説に特有のきわめて自由で伸縮自在な関係性に基づく。
ただしときには、元来は同一であるもの・ことを別異と見まがい、本来の同一性を回復することもいう。
中国仏教においてはさかんに「即」の語が用いられ、「即是」や「相即」その他の語もある。特に天台系の思想は、この「即」を種々に説き、縦横に応用して、いっさいの平等を強調した。
即の三義
天台教学で即を、仏教教学を考えて明らかにしたもの。四明〈しめい〉の知礼〈ちれい〉は、『十不二門私要鈔』の中で
- 今家に即を明かすは永く諸師に異なる。二物相合に非ず、及び背面相翻に非ず、直ちに当体全是をもって、まさに名けて即とするをもってなり
と言っている。これによれば、即という文字の用い方に3種あり、天台教学では当体全是の意味でいう、と主張している。
二物相合の即
体の別である2つの事物が不相離の関係にある場合をいう。たとえば「雲のあるところが即ち空〈そら〉である」という場合の即の意味である。この場合、空と雲とは不相離であるが、雲は雲であり、空は空であるから体別といわれ、ものがら〈体〉が違っているわけである。
しかし、空というものは雲の浮かんでいるところということで具体的に指示されている点、雲を離れて空は指示されないから不相離である。
背面相翻の即
見た目には全く別のように見えても、それは本来同一のものである場合で、「表に即する裏」という如くである。掌の表と裏や、織物の表裏もそうである。布の表と裏は見た目には異なっているが、同じ糸で織った一枚の布であることに変わりがない。
一切のものは、すべてそれぞれに無自性〈むじしょう〉であり、空〈くう〉でありながら、この無自性であり、空であるものが、そのまま相互に関係しあって意味ある存在となっているのであるから、無自性空のままで縁起の有であり、縁起の有のままで無自性空であると、空即縁起・縁起即空と説くのがこれである。
当体全是の即
二つの事柄が、そのものとして不二の関係にある場合をいうので、たとえば、渋柿がそのまま甘柿となるという場合の如くである。渋柿の渋を抜いて甘柿としたのではなく、渋がそのまま甘くなったとたとえられるのである。
煩悩即菩提とか、生死即涅槃と言われるが、煩悩と菩提や、生死と涅槃が矛盾対立でない点は注意しなければならない。つまり、煩悩を否定しても直ちに菩提ではなく、菩提を否定しても直ちに煩悩とはいえない。また、生死の否定において直ちに涅槃ではない。
その意味で、当体全是の即は、弁証法的な意味での矛盾の自己同一ではない。ここに仏教思想の立場と、ヨーロッパ思想の立場との差異がある。
この当体全是の即の意味から、「一即一切、一切即一」と説かれ、「頓証菩提」とか「娑婆即寂光土」とか言われるのである。
相即相入
また、華厳教学では、このような思想的立場をふまえて、相即・相入を説く。
相即
二つの事物が、そのまま即する意味である。
どの事物もそれぞれ空有相即してあるから、それらの事物同士もまた空有相即して、一切は無碍であるというのである。
相入
全く別のものが、すべて相互に働き入ることができ、一切が無碍であるという。それは、有力無力相即するからである。たとえば、一が有力となるとき、他は無力となって、その有力を受けこむことができるから、無力なものに有力は働き入る。これが相互に相入することができるから、一切は融通無碍であるわけである。
水と火とは全く相容れないが、火によって水を熱することができるのは、火の力が水に働き入って、水を熱することができるのである。
触
対象に触れて認識することのできる、感触のみの状態をいう。まだ、思考の入っていない段階。