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真の道理、まことのことわり。satyaを漢訳仏典では「[[たい|諦]]」と訳すことが多いが、それを現代の日本語に翻訳すると「真理」と訳される。漢訳仏典では「真実」という語を頻繁に用い、「真理」という語を用いることは稀である。 | 真の道理、まことのことわり。satyaを漢訳仏典では「[[たい|諦]]」と訳すことが多いが、それを現代の日本語に翻訳すると「真理」と訳される。漢訳仏典では「真実」という語を頻繁に用い、「真理」という語を用いることは稀である。 |
2013年1月31日 (木) 17:08時点における版
真理
satya
「satya」は言語的には『在り』の抽象名詞形で『あるべきものの意味と』になる。現実としてそこにあるものを、ありのままにありとすること、ありと覚ること、それが『真理』と呼ばれる。現実以外に特別な真理があるわけではない。
ウパニシャッドで、「梵」を「それは汝なり」(tat tvam asi)と表現した立場に続く考え方である。
真の道理、まことのことわり。satyaを漢訳仏典では「諦」と訳すことが多いが、それを現代の日本語に翻訳すると「真理」と訳される。漢訳仏典では「真実」という語を頻繁に用い、「真理」という語を用いることは稀である。
現代の日本語では、真理は、英語のtruthの訳語として定着している。さかのぼれば、ラテン語のveeritaas、ギリシャ語のaleetheiaにまで及ぶ。一般的には「真実の道理」を意味している。大別して、哲学的真理、科学的真理、宗教的真理に分けられ、キリスト教や仏教の場合は宗教的真理に属する。たとえば新約聖書に、イエスの言葉として
- わたしは道であり、真理(aleetheia)であり、命である (ヨハネ(14_6))
といい、またパウロは、
- 愛は寛容であり、愛は情け深い。…不義を喜ばないで真理を喜ぶ (コリントI(13_4~6))
といっている。
仏教での使用例
これに対して仏教の場合は、真理という語はあまりなじまない。しかしないわけではない。
中国の天台大師智顗は
- 方便道を名づけて人と為し、真理顕わるるを名づけて天と為す 〔摩訶止観(4上)〕
といい、華厳宗の第三祖法蔵は、ある人の説として
- 涅槃などの経は仏性の真理を明かす 〔華厳五教章(1)〕
と述べている。わが国の親鸞は
- 難信金剛の信楽は、疑を除き証を得しむる真理なり
といい、明恵は
- 仏道を願ふは、まづ一心を清むべし。清むといふは、外には名利を厭ひ、内には真理に向ふなり
という。
真理に相当する語
しかし仏教語としては、真理よりは、その意味に通ずる「真如」など、その他数多くの語が用いられている。
たとえば、源信作と伝えられる『真如観』という著作があり、それは仏教の真理観を著者なりに述べたものである。そのなかに、真如の同義語として、
- 実相・法界・法身・法性・如来・第一義
を挙げているが、けっしてこれだけに尽きるものではない。そのほか、
- 仏・法・解脱・涅槃・諦・無為・無漏
などもそうであるし、『大般涅槃経』には、涅槃の別名として、
- 無生・無出・無作・帰依・光明・灯明・彼岸・無相・無二・甘露
その他多くの語が示されている。もとより、それぞれ言葉が違うのであるから、それに応じて多少のニュアンスは異なってくるが、基本的に相通ずる所のあるのが、仏教の興味深い点である。
仏教でいう「真理」とは、言葉を超えた悟りそのものから、それを表現するさまざまな言葉となるのが特徴である。