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中国における[[くやく|旧訳]]では観音、観世音の名称が用いられるが、7世紀の[[げんじょう|玄奘]]の漢訳では観自在の名称である。<br> | 中国における[[くやく|旧訳]]では観音、観世音の名称が用いられるが、7世紀の[[げんじょう|玄奘]]の漢訳では観自在の名称である。<br> |
2017年4月14日 (金) 09:41時点における版
観世音菩薩
Avalokiteśvara (S) 観自在菩薩 略称:観音菩薩
大乗仏教の代表的な菩薩で、仏教の慈悲の精神を人格化したものである。
サンスクリット語では、アバロキタavalokita(観)とスバラsvara(音)の合成語、アバロキタスバラという。この語は、悩める世間の人々の音声を観ずるものという意味である。また観自在(かんじざい)菩薩ともいわれるが、それはサンスクリット語のアバローキテーシュバラavalokiteśvara、すなわちアバロキタ(観)とイーシュバラīśvara(自在)との合成語で、衆生の苦悩を観ずること自在なるものという意味である。
中国における旧訳では観音、観世音の名称が用いられるが、7世紀の玄奘の漢訳では観自在の名称である。
また密教では多くの場合に観自在の名称が用いられることが多い。さらに救世観音、施無畏菩薩、補陀大士(ふだたいし)、南海(なんかい)大士などの異名もある。
起源
観音信仰の起源は大乗仏教の菩薩思想の流れのなかに培養されたもので、弥勒菩薩と同じくらい早い時期にインドで成立した。しかし他方では、イランの光明思想がインドに展開したという説や、インドのシバ神あるいはビシュヌ神の説話と深い関係があるという説など、仏教以外に観音信仰の起源を求める考え方もある。このような考えは観音信仰に他の宗教の信仰形態が影響していることを示す。
『法華経』「普門品」には観世音菩薩が中心に説かれている。すなわち、一心に観音の名を称えれば、即時にその音声に応じて、衆生の七難を救うために、種々の姿を現すと説く。そこに説く三十三身は、のちに「三十三観音」あるいは「三十三所札所」信仰の基礎となった。
インド仏教において『法華経』よりやや遅い成立と考えられる『無量寿経』には、阿弥陀如来の脇侍として観音と勢至の2菩薩が取り上げられている。これは、観音の慈悲と現世の衆生救済能力が優れているという考えから、来世を願う信仰に導く阿弥陀如来にとってそのかわりとなりうる補処の菩薩として最適であるとされるからである。