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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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りょう、pramaaNa प्रमाण (sanskrit)
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<big>pramāṇa</big> प्रमाण (S)
  
[[いんみょう|因明]]などで使われる術語であり、「正智の出処」「正智を得る方法」と言える。
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 [[いんみょう|因明]]などで使われる術語であり、「正智の出処」「正智を得る方法」と言える。
  
pramaaNa を pra + √maa + ana と分解して考えると、
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 pramāṇa を pra + √mā + ana と分解して考えると、
* pra =valid, true.
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* pra     =valid, true.
* √maa >maaNa =knowledge
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* √mā >māṇa =knowledge
* ana =mean, orgin, instrument.
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* ana     =mean, orgin, instrument.
 
という意味であるところからくる。
 
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[[じんな|陳那]]は、一般に作具態で解釈していた ana を、作業態で解釈して、「能量即所量」と解釈している。<br>正智の決定は、'''量'''にのみよるものであり、如実智見である第一義智の成就もまた、合理と論証によるものであるとする。これが後世「仏教論理学派」とも呼ばれることとなる陳那の系列の考え方であった。<br>
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 [[じんな|陳那]]は、一般に作具態で解釈していた ana を、作業態で解釈して、「能量即所量」と解釈している。<br>
この考え方の基盤は釈迦在世当時から言われていたことであるが、釈迦の言葉が経典や戒律として定型化するに随って、自らの論証を捨てて聖教の言葉を規範とし始めた。もちろん、他の教徒にとってはごく普通のことではあるが、仏教では基本的に自らが論証することが第一義であるとしていた。<br>
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 正智の決定は、'''量'''にのみよるものであり、如実智見である第一義智の成就もまた、合理と論証によるものであるとする。これが後世「仏教論理学派」とも呼ばれることとなる陳那の系列の考え方であった。<br>
この立場を鮮明にしたのが、[[しょうぎょうりょう|聖教量]]を捨てて、[[げんりょう|現量]]と[[ひりょう|比量]]の2量のみを採用した陳那の功績である。さらに釈迦の[[さとり]]が[[むふんべっち|無分別智]]であることから、現量がもっとも正しい智であり、比量は第二義的なものであるとした。これは、[[ちゅうがんは|中観派]]の言う[[しんぞくにたい|真俗二諦]]にも通じる。
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 この考え方の基盤は釈迦在世当時から言われていたことであるが、釈迦の言葉が経典や戒律として定型化するに随って、自らの論証を捨てて聖教の言葉を規範とし始めた。もちろん、他の教徒にとってはごく普通のことではあるが、仏教では基本的に自らが論証することが第一義であるとしていた。<br>
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 この立場を鮮明にしたのが、[[しょうぎょうりょう|聖教量]]を捨てて、[[げんりょう|現量]]と[[ひりょう|比量]]の2量のみを採用した陳那の功績である。さらに釈迦の[[さとり]]が[[むふんべっち|無分別智]]であることから、現量がもっとも正しい智であり、比量は第二義的なものであるとした。これは、[[ちゅうがんは|中観派]]の言う[[しんぞくにたい|真俗二諦]]にも通じる。

2017年4月30日 (日) 14:31時点における版

pramāṇa प्रमाण (S)

 因明などで使われる術語であり、「正智の出処」「正智を得る方法」と言える。

 pramāṇa を pra + √mā + ana と分解して考えると、

  • pra     =valid, true.
  • √mā >māṇa =knowledge
  • ana     =mean, orgin, instrument.

という意味であるところからくる。

 陳那は、一般に作具態で解釈していた ana を、作業態で解釈して、「能量即所量」と解釈している。
 正智の決定は、にのみよるものであり、如実智見である第一義智の成就もまた、合理と論証によるものであるとする。これが後世「仏教論理学派」とも呼ばれることとなる陳那の系列の考え方であった。
 この考え方の基盤は釈迦在世当時から言われていたことであるが、釈迦の言葉が経典や戒律として定型化するに随って、自らの論証を捨てて聖教の言葉を規範とし始めた。もちろん、他の教徒にとってはごく普通のことではあるが、仏教では基本的に自らが論証することが第一義であるとしていた。
 この立場を鮮明にしたのが、聖教量を捨てて、現量比量の2量のみを採用した陳那の功績である。さらに釈迦のさとり無分別智であることから、現量がもっとも正しい智であり、比量は第二義的なものであるとした。これは、中観派の言う真俗二諦にも通じる。