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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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(識変)
 
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 能変は異熟識([[あらやしき|阿頼耶識]])と思量識([[まなしき|末那識]])と了別境識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の[[ろくしき|六識]])の3つに、所変は[[そうぶん|相分]]と[[けんぶん|見分]]の二つに分けられる。<br>
 
 能変は異熟識([[あらやしき|阿頼耶識]])と思量識([[まなしき|末那識]])と了別境識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の[[ろくしき|六識]])の3つに、所変は[[そうぶん|相分]]と[[けんぶん|見分]]の二つに分けられる。<br>
 
 変とは広くは阿頼耶識が変化することであるが、狭くは「変とは謂く、識体転じて二分に似る」と定義され、八識それぞれの本体([[じたいぶん|自体分]]・[[じしょうぶん|自証分]])が客観(相分)と主観(見分)とに分かれて変化することを意味する。<br>
 
 変とは広くは阿頼耶識が変化することであるが、狭くは「変とは謂く、識体転じて二分に似る」と定義され、八識それぞれの本体([[じたいぶん|自体分]]・[[じしょうぶん|自証分]])が客観(相分)と主観(見分)とに分かれて変化することを意味する。<br>
 この相分と見分とは[[さんしょう|三性]]([[へんげしょしゅしょう|遍計所執性]]・[[えたきしょう|依他起性]]・[[えんじょうじっしょう|円成実性]])でいえば心である依他起性に属し、仮に存在するもの([[けう|仮有]])であり、この相分と見分の関係の上に言葉と情念が働いて、実体として存在しない([[とむ|都無]])が心の外に実体としてあると考えられ[[しゅうじゃく|執着]]されるさまざまなもの、すなわち遍計所執性が設定される。
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 この相分と見分とは[[さんしょう|三性]]([[へんげしょしゅうしょう|遍計所執性]]・[[えたきしょう|依他起性]]・[[えんじょうじっしょう|円成実性]])でいえば心である依他起性に属し、仮に存在するもの([[けう|仮有]])であり、この相分と見分の関係の上に言葉と情念が働いて、実体として存在しない([[とむ|都無]])が心の外に実体としてあると考えられ[[しゅうじゃく|執着]]されるさまざまなもの、すなわち遍計所執性が設定される。

2018年4月19日 (木) 17:54時点における最新版

識変

 識転変ともいう。識が変化 すること。
 『成唯識論』や『述記』『三箇疏』などに多く見られる概念。もともとは、世親が『唯識三十頌』のなかで創唱した識転変(vijñāna-pariṇāma)すなわち「すべては阿頼耶識が転変したものである」という考えに由来する概念である。
 この考えから『成唯識論』においては識変という語が確立された。そして変が能変(変化せしめるもの)と所変(変化せしめられたもの)とに分けられ、二つの関係の上にさまざまな存在が仮に設定されるという考えが成立した。
 能変は異熟識(阿頼耶識)と思量識(末那識)と了別境識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識)の3つに、所変は相分見分の二つに分けられる。
 変とは広くは阿頼耶識が変化することであるが、狭くは「変とは謂く、識体転じて二分に似る」と定義され、八識それぞれの本体(自体分自証分)が客観(相分)と主観(見分)とに分かれて変化することを意味する。
 この相分と見分とは三性遍計所執性依他起性円成実性)でいえば心である依他起性に属し、仮に存在するもの(仮有)であり、この相分と見分の関係の上に言葉と情念が働いて、実体として存在しない(都無)が心の外に実体としてあると考えられ執着されるさまざまなもの、すなわち遍計所執性が設定される。