げんかん
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
現観
abhisamaya (S)
現前に(まのあたり、明了に)観ずること。特に、『倶舎論』巻23によれば、無漏智(煩悩を離れた智慧)である八忍八智の十六心によって四諦の理を観ずることが聖諦現観である。十六心とは、欲界の苦諦を知る苦法智忍・苦法智と色界・無色界の苦諦を知る苦類智忍・苦類智、同様にして、集諦、滅諦、道諦の三諦についても、それぞれ、法智忍・法智・類智忍・類智の四智をあげて16としたものである。このうち、十五心までが見道の位(預流向)で第十六の道類智は預流果で修道となる。
この現観にはまた、見現観(darśana-abhisamaya)、縁現観(ālambana-a.)、事現観(kārya-a.)の三種を分かつ。これは、四諦の理を現観するしかたを三種に分類したものである。
見現観とは、ただ無漏の智慧のみが四諦の理を明了に見ること。
縁現観とは、無漏の智慧と、それに相応して生起する心・心所(心の作用)とが、同一に四諦の理を所縁(認識の対象)とすること。
事現観とは、無漏の智慧と、それに相応して生起する心・心所、道共戒(見道以上の聖者の得る戒で、無漏道とともに生じともに滅する)・生住異滅の四相などの心不相応行法などが協力して、苦諦には知、集諦には断、滅諦には証、道諦には修というはたらきをなすことである。
また、苦諦を見る場合、苦諦においては三現観がそなわり、他の三諦においては事現観のみであるとする。というのは、苦を見るのは見現観、苦を縁ずるのは縁現観、苦を知るのは事現観であり、さらに、苦を見るとき、見苦所断の惑を断ずる点が集諦を断ずる事現観であり、断惑によって択滅を得る点が滅諦を証する事現観であり、無漏の智慧が現前する点が道諦を修する事現観であるからである。これは、他の三諦を見る場合も同様であり、自身の諦においては三現観を具し、他の三諦においては事現観のみをそなえる。なお、大衆部などでは、一刹那の心によって一時に四諦を現観する頓現観説をたてるが、有部では、十六刹那にわたって漸次に現観する漸現観説をたてる。
ただし『倶舎論』では、事現観についてのみ頓現観説を認める。
次に、『成唯識論』巻9では、六現観説をたてる。『倶舎論』の所説と異なり、現観の主体は、無漏の智慧ばかりでなく、有漏の智慧も含まれ、現観する位も見道のみでなく、それ以前・以後にわたる。六現観とは、
- 思現観 喜受と相応する思からなる慧
- 信現観 三宝を対象とする世間・出世間の決定の浄信
- 戒現観 無漏の戒
- 現観智諦現観 見道・修道において真如の体を対象とする根本智・後得智
- 現観辺智現観 もろもろの真如の相を対象とする世間・出世間の智
- 究竟現観 究竟位における無漏の十智
の6種であり、4~6が現観の自性である。
参考文献
- 西義雄『阿毘達磨仏教の研究』国書刊行会,昭50
- 早島鏡正「Abhisamaya」(『東洋大学紀要』12,昭33)