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いっしんほう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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一心法

 衆生心と同じで、心真如の相と心生滅因縁の相とを具えている。それをここでは、心真如門・心生滅門と表現する。「一心」とは、二・三・四に対する一ではなく、全体という意味。故に「唯心」といっても同じであり、われわれの経験の全体をいう。
 経験は心以外のものではない。自我意識だけが心ではなく、外界も心に認識されて、はじめて外界たり得る。心が絶えず変ってゆくことは明らかであるが、その変りつつある心に不変の性質があると見るのが「起信論」の立場である。
 その変らないものが何であるかを示さんとするのが、『起信論』の目的の一つである。例えばわれわれは「自我」は変らないと考えるが、あるのは「自我意識」であって、自我そのものではない。そのために「自我についての解釈」は、人によって異なる。しかもわれわれの「自我意識」は絶えず変ってゆく。変化し成長する。したがって『起信論』では、このような自我意識を超えて、永遠なるものを探求する。永遠なるものは真理であるが、真理は「私の真理・汝の真理」という風に区別できないものである。自分のみに妥当し、相手に妥当しないものぼ真理とはいえない。
 真理は普遍者である。故に一心における永遠の相は、自我意識を超えている。このように心には、永遠の相と生滅の相との二面がある。この両面から一心を説くのが、『起信論』の立場である。『義記』は、前者を「約体絶相の義」と呼び、後者を「随縁起滅の義」と呼んでいる。