しじんしかん
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四尋思観
加行位のなかの前半の煖と頂との二つの位において尋思をもって修せられる観法。尋は詳しくは尋求、思は思察といわれ、尋思とは、なにかと追求する心をいう。追求する対象として、①名、②義、③名と義との自性、④名と義との差別、の4つがあるから四尋思という。
このなか名とは「名称」「言葉」、義(事という場合もある)とは言葉が指し示し言葉によって表現される「対象」「もの」、自性とは名と義との両者の「それ自体」、差別とは名と義との「細かいありよう」をいう。
たとえばここに「鉛筆がある」という場合、鉛筆という「名称」が名であり、その名称が指し示す「もの」が義であり、鉛筆という「名称そのもの」と「ものそのもの」とが自性であり、「鉛筆とは~である」と考える場合の~にあたるさらに細かい性質・特質が差別である。
この四尋思観は『瑜伽師地論』では
名尋思とは、謂く、諸の菩薩は名に於て唯だ名を見る、是れを名尋思と名づく。事尋思とは、謂く、諸の菩薩は事に於て唯だ事を見る、是れを事尋思と名づく。自性仮立尋思とは、謂く、諸の菩薩は自性仮立に於て唯だ自性仮立を見る、是れを自性仮立尋思と名づく。差別仮立尋思とは、謂く、諸の菩薩は差別仮立に於て唯だ差別仮立を見る、是れを差別仮立尋思と名づく 〔『瑜伽』36、T30-490b〕
と説かれ、『成唯識論』では
四尋思とは、名と義と自性と差別とは仮には有りて実には無しと尋思するを謂う。 〔『成唯識論』9,T31-49b〕
と説かれるように、この四尋思観の目的は「名・義・名義自性・名義差別の四つは唯だ心のなかの影像にすぎず仮に存在するものであって真実には存在しない」と観察し理解することである。
詳しくは、煖の位においては明得定による下品の尋思を修し、頂の位においては明増定による上品の尋思を修し、両者によって所取(認識されるもの)は空であると観じることをいう。
この四尋思観から始めてさらに加行位の後半の忍と世第一法との二つの位で四如実智観を修して、「唯だ心しか存在しない」という認識をさらに深めて智の段階に至る。