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しぶん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

四分

 法相宗では、八識を立てる。八識の心王・心所(心の作用)の体は各一つだが、所起の用を分別すると四分があるとする。
 四分については、最初に護法(Dharmapāla)が説いたという。原語は不明だが、サンスクリットで、grāhya、 grāhaka、 saṃvṛtti もしくは saṃvid がそれぞれ相分、見分、自証分に当たると思われる。

 四分と申候は相分・見分・自証分・証自証分也、眼識にも此四分あり、乃至阿頼耶識にも此四分あり、五十一の心所にも是の如し。  〔唯識大意〕

相分

 客観的側面。
 心の内に現れる境である。この場合の心は慮知の法である。慮知の法には、かならず所知の法があるから、心が生ずる時、心が自ら転変して所慮所托の境を現じる。これを所慮所托の境分という。
 相とは相状であり、心が起こるとき、心の前にうかぶ相貌である。

見分

 主観的側面。
 見とは見照のことであり、能縁を義とする。その所変の相分を縁ずる見照の作用である。識の自体相分を変ずるとともに、能縁の働きを起こす。

自証分

 自分が対象を認識しているということを自覚する側面。
 見分は相分を知ることはできるのだが、見分が自ら見分を知ることはできない。だから、別に見分を知るという働きがある。これを自証分という。
 これは識の自体分である。見分とは別物ではない。つまりこれ自体が相分を縁ずる働きなのである。これによって、この自ら起こした見分を証知するから自証分と言うのである。

証自証分

 自証分の働きをさらに自覚する側面。
 自証分を自証する働きを誰が証知しているのかと考えるときに、自証分よりもさらに能縁の働きを起こして自証を証知しているものが想定される。これが証自証分である。
 これによって、この証自証分を証知するものは何かというと、前の自証分である。自証分は証自体であるから、外を縁ずる見分と内を縁ずる証自証分とを共にこれを知ることができる。よって、見分と証自証分とは、共に自証分が内外を縁ずる二つの働き()である。体はかならず用を覚知するから、二つの側面を縁ずるといえる。これによって第五分を想定しない。

四分の関係

 たとえば、店頭に貨物があるのは相分のようなものである。番頭は見分、主人は自証分、その嫁は証自証分のようである。
 このたとえで言えば、見分が相分を縁じて自証分を縁じることはない。番頭が貨物を差配するが、主人を縁じることはできないようなものである。自証分が外の見分と内の自証分とを縁じるのは、主人が番頭と嫁とを管理しているようなものである。証自証分が自証分を縁じるのは、嫁が夫のことを知っているようなものである。

 たとえば、ある物の長さを物差しで量るとき、量られる物と量る物すなわち物差しとがあり、前者は所量、後者は能量といわれる。
 この場合、それが何センチであるという認識が成立するためには、「物」と「物差し」だけでは不十分であり、それに加えてそれは何センチであると「判断する心」が必要であり、この判断する心の働きがあってはじめて物を量るという一連の認識が結果として成立する。この意味で、この心の働きを量果という。このように所量と能量と量果の三つが存在して、ある一つの認識が成立するが、この三つが順次、相分と見分と自証分とに相当する。
 これら三つの部分に加えて、さらに自証分の働きを確認する心の領域を考え、それを証自証分と呼び、全部で4つの分を立てるに至った。

護法以前との比較

 この四分は、前にあるように護法が立てたものであり、それ以前には「三分」を立てており、証自証分を自証分に含めている。起信論に説いている業・転・現の3つの識は、自証分・見分・相分にそれぞれ当たる。

 さて、一切の諸法は一つとして相分として影現しないものはない。ただし、諸識の相分については、影現の相に不同がある。これを示すと下記のようになる。

前五識 ‥‥ 相分 ‥‥ 五境
第六識 ‥‥ 相分 ‥‥ 一切法
第七識 ‥‥ 相分 ‥‥ 第八識の見分
第八識 ‥‥ 相分 ‥‥ 種子五根、器界、体性五境

 この四分説は『成唯識論』ではじめて打ち出されたが、その後その注釈書である「三箇の疏」などでさらに詳しく考究され、その理論は複雑になり、三類境説とならんで唯識学における難解な教理となった。このことは古来から「四分三類唯識半学」(四分説と三類境説とを習得したら唯識説の半分をすでに学んだことになる)といいならわされている。
 この四分説は護法の説であり、安慧は一分説、難陀は二分説、陳那は三分説をとる。このことは古来から「安難陳護一二三四」といいならわされている。〔成唯識論2,T31.10a~b〕