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さんるいきょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

三類境

 「唯識」が説く3種類の認識の対象。性境・独影境・帯質境の三つ。「唯識」ではただ心のみが存在し、あらゆる現象は根本心である阿頼耶識のなかの種子から生じ、心のなかに顕現したものであるという立場から、あらゆる認識は心が心を見ることであると主張する。
 そして見る主観の側の心の部分を「見分」、見られる客観の側の部分を「相分」と名づける。そしてこの見分と相分とが阿頼耶識のなかの別々の種子から生じるのか、同一の種子から生じるのかによって認識される対象としての相分の存在性が三種類に分かれると説く。すなわち、相分が見分の種子と別の種子から生じる場合は、相分は実際に存在するもの(実法)であるのに対して、相分が見分とおなじ種子から生じる場合は、第六意識が強引に見分の種子から相分の影像を作り出したのであるから、相分は実在性のない仮に存在するもの(仮法)であるとみる。このような見解にもとづいて、認識対象(相分)を次のような性境・独影境・帯質境の三つに分ける。

性境

 真実の体性をもつ対象(相分)。次の4つの条件をそなえた対象。

  1. 見分の種子とは別の種子より生じたもの。
  2. 生じた相分には実際の実体と実際の作用とがある。たとえば現前にある鉛筆は実際に鉛筆という実体があり、字を書くという作用がある。
  3. 性境を認識する見分は対象の自らのありのままのすがた(自相)を把握する。
  4. 相分に本質がある。本質とは阿頼耶識が作り出し阿頼耶識が自ら認識している、存在の基体をいう。相分に本質があるということは、2.で述べたように、その相分に実体性と実用性があるということである。

 性境として次のものがある。

  1. 阿頼耶識の対象としての五根器世間・種子。
  2. 五識の相分。
  3. 五識とともに働く意識の相分。
  4. 定心の意識の相分。
  5. 無分別智の対象である真如

独影境(どくようきょう)

 本質を有することなく独り影像のみがある対象。実際には存在しないもの(無法)をいう。たとえば亀毛(亀に海草がまとわりついたのを亀の毛とみまちがったもの)や兎角(兎の耳を角とみまちがったもの)などをいう。詳しくは独影境として次のものがある。

  1. 第六意識が亀毛などの無法を認識するときの相分。
  2. 第六意識が過去や未来などの仮法を認識するときの相分。
  3. 阿頼耶識とともに働く心所の相分。

帯質境(たいぜつきょう)

 本質を帯びているが性境のように正しく認識されたものではなく、まちがって認識されたものをいう。この相分は本質を持ち、自らの種子から生じたものであるが、それは性境とちがって第六意識の分別がからんでいるから独影境とおなじく見分の 種子とも関係している。すなわち帯質境は性境と独影境との中間にある存在をいう。帯質境としては次のものがある。

  1. 末那識が阿頼耶識の見分を認識するときの相分。
  2. 意識が非量(錯覚)するときの相分。

参考

  • 『枢要』上末、T43・620a~b
  • 『了義灯』1末、T43・677c以下