かくぎ
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(かくぎぶっきょうから転送)格義
中国における仏教受容の初期段階に行われた教理解釈法。
仏教伝来以前に、すでに独自の古典文化を完成させていた中国では、インド仏教の原典に即して直接その教理を理解するのではなく、漢訳仏典に全面的に依拠しつつ、思想類型の全く異なる中国古典との類比において仏教教理を理解しようとした。このような方法を特に「格義」といい、それに基づく仏教を「格義仏教」という。
格義仏教
時代的には、西晋(280-316)末から東晋(317-420)にかけて盛行し、老荘思想が主流を占めた思想界の状況を反映して、老荘の「無」の思想によって般若経典(般若経)の「空」の思想を解釈することが流行った。
西晋末の竺法雅は、豊かな中国古典の教養を活用して仏教に暗い知識人を教導し、格義仏教の端緒を開いて仏教の知識人間への普及に貢献したが、やがて原典から遊離した格義による「空」義研究は多くの異論を生み出すようになり、釈道安の批判を招く結果となった。
その後、5世紀初頭に鳩摩羅什によって龍樹の般若教学の体系が紹介されるに及んで、格義仏教はその歴史的使命を終えた。
しかし、中国仏教はその本質において終始格義的仏教であり続けた。
- 経中の義数を以て、外書に擬配し、生解の例と為す。之れを格義と謂う 〔高僧伝(4、竺法雅伝)〕
格義仏教は中国人にとってなじみのうすい仏教の教理を、広く理解しやすいものとするため、儒教や老荘など中国固有の思想から類似の観念や用語を借りてきて説明の便法とした講義方法のことで、これにもとづいて展開した仏教の総称である。そのおこりは竺法雅や康法朗に始まるとされる。
すなわち『梁高僧伝』巻4の「竺法雅伝」に、
- 門徒並びに世典に功有るも、未だ仏理を善くせざるに依り、雅乃ち康法朗等と、経中の事数を以て外書に擬配し、生解の例と為す。これを格義と謂う。
とある。経中の事数をもって外書に擬配するというから、三界・四諦・五悪といった法数に関して、特に格義の解釈が有効であったようである。具体例としては、五戒(不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒)を説明するにあたり、儒教の五常(仁・義・礼・智・信)という倫理概念を借りて説き示すなどはそれである。
もっとも、こうした格義解釈は、すでに、仏典の翻訳という段階でも現われており、ニルヴァーナ(nirvāṇa, 涅槃)に無為、タタター(tathatā, 真如)に本無というように、それぞれ原義そのものからは離れた訳語が提示されている。これらの訳語は、現象面に現われるものをすべて未有とみなし、その本にあるのは無であるとする何晏・王弼の貴無論を背景として採択されたものである。
このように格義仏教は、もともとは仏教を中国に移植するための便法として発生したわけであり、実際これによって当時の貴族社会に多くの支持をかちとることもできたのであるが、一方こうした研究講説が普及するにつれ、原義の正確な理解がなおざりにされ、むしろ格義解釈の精妙を競うような風潮さえ惹起された。
その代表ともいうべき人物は支遁である。彼は魏晋期士大夫のあいだに流行した清談玄学に精通し、難解な般若思想にこれをたくみに配して解説することにより、まさに時代の寵児となったのである。いわば格義に長ずることは、名声を博する捷径でさえあったのである。
また中国思想を媒介として仏教を理解するという格義の方法そのものが、仏教と中国思想との混合、融会を促進し、それぞれのもつ本来の内容を徐々に変質させていくことにもなった。格義仏教が内包するこれらの弊害は、釈道安のような一部の真摯な学僧においてすでに認識され、深い反省も起こってはいたが、時代的制約もあり、学識高いすぐれた訳経僧も得られず、ついに道安自身も格義に依存して研究を進めるほかなかったのである。しかし道安の待望するところは、その門下によってひきつがれ、やがて羅什の長安入り、そして般若系に属する各種経論の訳出によって、安易に外典に頼ることのない正しい研究方法の道が開かれた。僧叡・僧肇など羅什の訳経に参画した学僧たちは、その後格義仏教の批判と超克を軸として講説著述をなし、中国仏教の発展の基礎を築いていったのである。
ちなみに、近代になって仏教が西欧に紹介された際、類似の哲学概念との比較から教理の解明が行なわれたが、これなども一種の格義仏教ということができよう。